「悪」を考える 後編
こんにちは、ふみなるです。
theLetter第7回目の記事です。今回は「『悪』を考える」の後編として、予告通り聖書の「悪魔」について考えていきます。若干長くなりましたが、どうぞ最後までお付き合い下さい。
前編と中編の記事はこちらから↓
メールアドレスをご登録いただくと、最新記事がメールで届きます(登録無料)↓
レギオンの教訓
マルコによる福音書5章に「けがれた霊(悪魔)につかれた人」のエピソードがあります。悪魔が登場する話は聖書に多くありますが、これは「レギオン」という名前が出てくるなかなか珍しいケースです(X-MENのレギオンというキャラクターはおそらくこのエピソードが元ネタでしょう)。
この「悪霊に取り憑かれた人」は墓場に住んでいます。裸で、叫んだり自分の体を傷つけたりします。鎖で縛っても引きちぎってしまいます。そこへキリストの一行が通りがかり、彼から悪魔を追い出します。その悪魔は実は集団で、レギオン(軍隊)という名前でした。
わたしはこのエピソードは繰り返し読んできましたが、「この人は統合失調症だったのでは?」とあるとき思うようになりました。精神科病棟に入院している統合失調症の患者さん(の急性症状)そのままの描写だと気づいたからです。服を脱いだり、妄想を叫んだり、自分や他人を傷つけたり、縛ると死にもの狂いで外そうとしたり……、主要な症状を全て押さえています。
統合失調症の症状に苦しむレギオン(ドラマ「レギオン」)
この彼の描写はサラッと読まれて安易に「悪魔に憑かれたからこうなったのだろう」と考えられがちです(わたしもそうでした)。しかし今は、「精神疾患を発症して共同体の手に負えなくなった人が墓場に放置(隔離)された」図に見えます。もちろん当時は精神科病院もなく、治療方法もなかったですから、困り果てた挙句の処置だったと想像しますが。
余談ですが、この時代に精神疾患を患った人たちがどういう扱いを受けていたか気になります。精神疾患は古代から「悪魔に取り憑かれた結果」と考えられてきました(日本ではキツネや先祖の祟りなど)。紀元前4~5世紀頃「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスが既に「脳の病気」と定義していましたが、統合失調症などのメカニズムが解明され始めたのはずっと後の20世紀に入ってからです。それまでは不当に監禁されたり、見当違いな「治療」の犠牲になったりしてきました。「悪魔憑き」と考えられる傾向もずっと残っていました(今もあるでしょう)。
日本でも1900年の精神病者監護法の下、私宅監置(自宅の一室や小屋などに監禁すること)が1950年まで合法的に行われていました。それを考えれば、新約聖書の時代に精神疾患を患った人を「悪魔に憑かれたから」と墓場に隔離したのは、何ら不思議ではありません。
いわゆる「座敷牢」で精神疾患患者の私宅監置が行われた(画像はイメージ)
わたしがこのエピソードで特に注目したのは4節です。
「彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかった」
しかし、彼は墓場に1人でいたのですから、鎖でつなぐ必要はなかったのではないでしょうか。勝手に叫ばせて、暴れさせておけば良かったはずです(それが墓場に隔離した主な理由だったはずです)。鎖でつなぐ労力や、その際に反撃されるリスクを犯す理由は何だったのでしょうか。
彼が自分自身を傷つけるのを止めたかったからでは、とわたしは想像します。結果的に墓場に追いやるしかなかったけれど、それでも彼のことを心配する人(たち)がいたのだと思います。
わたしは看護師として精神科病棟で勤務していますが、入院患者さんの症状が悪化して暴れたり叫んだりする時は、身体拘束しなければならないことがあります(乱暴な言い方をすれば、ベッドに縛り付けて動けないようにします)。保護室に隔離することもあります(同様に乱暴な言い方をすれば、独房に閉じ込めて出られないようにします)。
こういう話を聞くと「なんて酷いことを!」と反応する人が時々います。しかし現場の状況で言えば、そういう処置を「しない」方が酷いです。むしろ患者さん本人と周囲の人々を守るためにそういう対応をしなければなりません。患者さんは暴れたくて暴れるのでなく、叫びたくて叫ぶのでなく、自分で自分を止められない状態だからです。
この墓場で自分自身を傷つけていた彼も、自分で自分を止められない状態だったのだと思います。それをなんとか止めたくて、彼の家族や友人らが、鎖でつなごうとしたのではないでしょうか。
しかし、無理でした。こんな酷いことが起こるのは悪魔の所業に違いない、と彼らは考えたかもしれません。
精神疾患を「悪魔の所業」と考えるクリスチャンは現代にもいます。「悪霊追い出しの祈り」も(映画「エクソシスト」さながらに)一部で行われています。それ自体はここでは否定しません。けれど、自分たちにとって都合の悪い存在(例えば精神疾患、重病、障害、貧困、様々な分野のマイノリティなど)を一方的に「悪」と決めつけ、その状態になったのを「悪魔の所業」と断定する心理が根底にあるのではないでしょうか。彼らは本当はケアされるべき存在なのに。
ちなみに墓場に追いやったというのは、その人はもう死んだも同然だ、という意味があったかもしれません。
前回紹介した「キャプテン・マーベル」のキャロル(キャプテン・マーベル)は前半、正義と平和のために宿敵スクラル人と戦っているつもりでした。それが後半、スクラル人が実は宇宙難民であり、保護されるべき立場だったと分かります。自らの過ちに気づいたキャロルは贖罪の意味を込めて、彼らが安住できる星を探す旅に出ます(映画「エンダーのゲーム」もこれと似たような構図です)。
異星人バガーの侵略に立ち向かう戦士として選ばれた少年たちだったが……(映画「エンダーのゲーム」)
わたしたちが悪魔だと決めつけている相手は、本当に悪魔なのでしょうか。悪魔が原因だと決めつけている現象の原因は、本当に悪魔なのでしょうか。そうやって決めつけるわたしたち自身の「悪」を、都合よく見過ごしていないでしょうか。レギオンのエピソードは悪魔に関するものですが、逆説的に、わたしたちにそう問いかけているようにも思えます。
エバになすりつけられた責任
次に取り上げる箇所は創世記です。これはクリスチャンでない方にも有名かもしれません。人間の始祖であるアダムとエバが、エデンの園において、ヘビ(悪魔)に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまった話です。
ヘビはまずエバに話しかけ、木の実を食べても大丈夫だと請け負います。すっかり騙されたエバは取って食べてしまい、アダムにも与えます。聖書の文面からは分かりませんが、アダムも特に疑問に思わなかったようです。彼も与えられるまま食べてしまいました。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
この箇所から、「エバが先に誘惑された」と考えられがちす。そこから派生したのが「女性の方が(男性より)誘惑されやすい」「女性の方が判断力が弱い」「女性の方が愚かだ」みたいな誤情報の数々です。おそらくこの箇所を元にして、パウロは「女は子を産むことで救われる」とか「女は教会では黙っているように」とか「女は被り物を取ってはならない」とかの女性蔑視を聖書に記したのではないでしょうか(彼自身はそれが聖書に載るとは思っていなかったでしょうけれど)。
旧約聖書に始まった女性差別を、新約聖書が補完してしまった形です。
このキリスト教内の女性差別は現在まで続いています。例えばプロテスタントの教職者の男女比はおよそ8:2から9:1くらいです(教派によって異なるかもしれませんが、大きく外れてはいないでしょう)。教会や教団の物事を決めるのは男性で、進めるのも男性です。人事権も男性が握っていますから、女性のチャンスは限られています。ちなみにカトリックにおいては女性教職は認められていません。
さて、ここまで酷い差別が横行しているのは、エデンの園においてエバが先に誘惑されてしまった(とされている)からでしょうか。エバに代表される女性たちは、その罰を延々と受け続けなければならないのでしょうか。
エバに責任転嫁するアダム(ドメニコ・ザンピエーリ作 17世紀前半)
しかしわたしが思うに、一番悪いのはヘビでもなく、エバでもなく、この創世記3章の展開を利用した後世の(そして現代の)人たちです。主に男性たちですが。しかしその男性の1人であるアダムは禁断の木の実を食べただけでなく、それを神に指摘されて、このように言い訳しています。
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」
この女性への責任転嫁は、現在に至るまで、ずっと男性によって続けられているのではないでしょうか。そう考えると本当に悪いのは悪魔なのか、人間なのか、わたしはよく分からなくなります。
本当に怖いのは
最後にオマケです。「悪魔憑き」を扱った有名な映画に「エクソシスト」と「コンスタンティン」がありますが、どちらも①若い女性が悪魔に取り憑かれ、②低い男性ボイスで喋り出す、という共通点があります。わたしが教会で実際に聞いた「悪魔憑き話」(聞いただけで実際に見てはいません)も同じ構図でした。低い男性ボイスで喋り出す禍々しい形相の若い女性、はもはや悪魔憑きのシンボルです。
悪魔に憑かれた少女(映画「エクソシスト」)
しかし、なぜいつも「若い女性」が餌食になるのでしょうか。そしてなぜ悪魔は「低音ボイスの男性」前提なのでしょうか(典型的な性加害のニュアンスを感じます)。教会で聞いた「悪魔憑き話」が全部作り話だと断定することはできませんが、あまりにステレオタイプでないでしょうか。それとも悪魔には多様性がないのでしょうか。
自分で見たわけでもないそういう話を広めるのは、悪魔を利用して人々を恐れさせるだけだと思います。こういう場合、悪魔と人間とどちらが「悪魔的」でしょうか。
正直なところ、わたし個人は悪魔より人間の方が怖いです。
終わりに
今回は以上になります。最後までお読みいただき、ありがとうございました。次回は映画「ある少年の告白」から、同性愛矯正キャンプについて書く予定です。
今週も皆さんによって良い一週間となりますように。
ふみなる
※クリスチャンと「悪魔」のリアルな関係についてはこちらの記事もご参考下さい↓
※わたし個人への投げ銭はこちらから↓
すでに登録済みの方は こちら