「事実」は人の数だけある?
歴史+ミステリー
『指差す標識の事例』はイアン・ペアーズの1997年の歴史ミステリー小説。日本では2020年に出版され、第12回翻訳ミステリー大賞を受賞した。「『薔薇の名前』とアガサ・クリスティの融合」と評される通り、17世紀のイングランド、オックスフォード大学で勃発した殺人事件をめぐる物語となっている。
1663年、オックスフォード大学の教授が毒殺される。誰かが酒にヒ素を混ぜたのだ。目撃証言から、貧しい雑役夫の怨恨による犯行だと断定される。本人も自供し、絞首刑に処され、事件は幕を閉じたかに見えた。が、真相を知ると主張する者たちが、次々と告白を始める。
本書は四つの手記からなる。第一の書き手はヴェネツィアの医学生コーラ。事情が分からない異国で毒殺事件に巻き込まれる。第二の書き手は父の汚名をそそがんとする没落貴族プレストコット。犯人は雑役夫でなく、自分がよく知る別の人物だと告白する。第三の書き手は幾何学教授ウォレス。コーラが実は陰謀を持ってイングランドにやって来て、事件を起こした真犯人なのだ、と断じる。第四の書き手は純朴な歴史学者ウッド。自分こそ本当の犯人を知っている、と告白する。
面白いのは4人とも「微妙に信用できない語り手」である点だ。ある記述者の嘘や誤解が、次の記述者によって暴かれる。手記全体は概ね事実らしいが、意図的に書かれなかった部分や、互いに矛盾した部分がある。手記が進むにつれてそういった事情が明らかになり、全部読み終えると、第一の手記の意味がガラリと変わる。再読するのも楽しい作品だ。
4人の視点を通して語られる当時のイングランドの様子も興味深い。クロムウェル亡き後の1660年、王政復古によりチャールズ2世が復権したが、まだまだ不穏な情勢が続いている。プロテスタントが国教であり、カトリック信徒は毛嫌いされる。クェーカー教徒の秘密集会は厳しく取り締まられるが、それでも信心深い信者たちは夜な夜な集まる。貧富の差が激しく、身分制度は厳格で、貧しい労働者階級は貴族階級に暴力を振るわれても訴えられない。女性は劣ったもの、邪悪なものとして扱われる。
それ以外にも、4人の人生それぞれの一大事に多くのページが割かれており、ともすると殺人事件を忘れてしまうくらいの読み応えだ。特にウッドの手記には美しく心に残るシーンが散見される。残念なのは手記を書くのが全員男性である点、若い女性が冤罪の犠牲になる点、彼女を救える立場にある男たちが動こうとしない点で、もう少しフェミニズム要素がほしかったなと思う。
「事実」は人の数だけある?
各人がそれぞれ異なる話を「事実」として語る、というスタイルで思い出したのが、私の教会の解散期の混乱だ。詳細はここでは省くが、教会は牧師側と役員側とに分かれて激しく対立した。起こった事実は一つのはずだったが、立場の違う人間がそれぞれ解釈し、それぞれ違う「事実」を作り上げていた。私は教会で何が起こったか、その事実をほぼ知っていると思っているが、それさえも他の人間から「ここが間違っている」「本当の事実はこれだ」と指摘されるものかもしれない。
その意味で本書の4人の記述者、コーラ、プレストコット、ウォレス、ウッドがそれぞれ信じる「事実」は、彼らにとって事実でしかあり得ないのだろう。かといって被害に遭った事実まで否定されたらたまったものではないのだが。(ふみなる)
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お知らせ
2021年内のニュースレターは今号で終わりです。
2022年1月からは趣向を変えて、おそらく不定期に発行していく予定です。これまでお読み下さり、ありがとうございました。
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