最後のエバ
現代版ノアの方舟
M・R・ケアリーのディストピア小説『パンドラの少女』(2014年)は一風変わったゾンビ・アポカリプス。数多あるゾンビものは「どうやってゾンビを倒して生き残り、文明を再興するか」を大まかな目的としてきたが、本作は変化球でそれを軽々乗り越える。邦題に付けられた「パンドラ」の意味もそこに繋がる。2016年には『ディストピア パンドラの少女』(コーム・マッカーシー監督)という邦題で映画化された(映画は概ね原作通りだが、個人的にはディティールがより理解できる原作小説をお勧めしたい)。
ゾンビの発生で壊滅状態のイギリス。シェフォードの陸軍基地では生き残った兵士や研究者らはワクチン製造に一縷の望みをかけている。急ごしらえの「学校」では厳重に拘束された子どもたちが「授業」を受けている。彼らは外見は普通の子どもだが、ゾンビに感染した親から生まれた「第2世代ゾンビ」。第1世代に見られない感情と知能を有しており、研究対象となっている。中でもメラニーという10歳前後の少女は感受性豊かで攻撃性が見られず、教師のジャスティノーと親交を結ぶまでに至る。彼ら第2世代ゾンビは、残された人類の希望となるのか。
拘束されて「授業」を受ける第2世代ゾンビたち(映画『ディストピア パンドラの少女』より)
多くのゾンビ・アポカリプスのメッセージは「最も恐ろしいのはゾンビでなく人間」だ。追い詰められた人間は遅かれ早かれ殺し合いを始め、ゾンビさえ利用するようになる。どこまで非道になれるかが生存の鍵である以上、大抵明るい話にはならない。そして最終的にゾンビの方が公平だと気づかされる。ゾンビたちは相手を選ばず、誰も差別せず、互いに殺し合わないからだ(その意味でゾンビの蔓延は、資本主義的格差社会の破壊という希望ですらあるかもしれない)。
その点でも本作は異彩を放つ。わずか4人の生存者とメラニーの逃避行の中、初めはあくまでゾンビとして危険視されていたメラニーが、次第に仲間として受け入れられていく絆の物語だからだ。メラニーとジャスティノーの関係は美しいシスターフッドでもある。原題の『The Girl With All The Gift』(あらゆる贈り物を受け取った少女)は、そんなメラニーの豊かさを表している(ギリシャ神話の『パンドラ』が第一義なのは言うまでもない)。中盤はイギリスの田園風景と重なって牧歌的だ。
危険な逃避行を続ける生存者たちとメラニー(映画『ディストピア パンドラの少女』より)
※以下の一段落はネタバレを含む。
しかし本作の結末は生存者らにとって希望とは言えない。人類は絶滅を余儀なくされるからだ。しかしメラニーたち第2世代ゾンビが「新人類」として生き続けるところに希望がある。「パンドラの匣」からあらゆる災厄が解き放たれたあと、一つの希望が残ったように。最後の人間となったジャスティノーから教育を授かる彼ら新人類は、新たな文明の礎となる。そしてメラニーは新たなノア、あるいはエバとなる。その意味で本作は現代版ノアの方舟だろう。世代交代の話なのだ。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなった。
キリスト教界は世代交代できるのか
キリスト教界ではこの世代交代がしばしば問題となる。
聖職者に定年の概念がなく、老齢になっても現役を続けるケースが多いからだ。「死ぬまで現役」が褒めそやされる風潮さえある。しかしその皺寄せが次世代、次々世代にまで及んでいる。40代、50代の聖職者が「若手」と言われるのはその所以だろう。
信徒の高齢化も教派によっては深刻だ。先日某教会の礼拝に参加したが、司会も説教者も奏楽者も会衆の9割も年輩者だった。若い信徒は数える程度。もちろん都心には若手中心の大教会もあるが、全体的には圧倒的に高齢化が進んでいる。10年後、20年後はどうなるのだろう。『パンドラの少女』は前述通り壮大な世代交代の話だが、日本のキリスト教界は、上手く世代交代できるかどうか正直不安がある。
最後のエバ
※以下の一段落はネタバレを含む。
終盤、人をゾンビ化する菌糸が世界中に拡散され、生き残った人類は(描写されないが)総ゾンビ化する。教師のジャスティノーだけはメラニーの機転で気密室に難を逃れるが、もはや彼女は二度と外に出られない。ジャスティノーはメラニーの求めに従って、新人類のための教師となる。世代交代の重要な、そして唯一の架け橋となったのだ。そんな彼女の姿に、聖書の一節を想起する。
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
この「命を与える最後のアダム」はキリストを指すが、新人類に文明を伝え残すジャスティノーの役割と重なる。彼女は女性なので「最後のエバ」と言うべきだろう。最後のエバは、メラニーたち新人類に教えを授ける賢者となった。
ジャスティノーは気密室越しに「授業」を始める(映画『ディストピア パンドラの少女』より)
ところで聖書では最初の人間はアダムとエバとされているが、この聖書箇所では「最後のアダム」とだけ記され、エバが無視されているのは、キリストも男性だったからだろうか。あるいは「女性と子どもを数えない」ユダヤの男尊女卑の慣習によるものだろうか。あっさり読み飛ばしてきた箇所だが、改めて考えさせられる。
ナオミ・オルダーマンの小説『パワー』(2018年)は、男女の力関係が逆転した世界の物語だ。女性の鎖骨下に発電器官「スケイン」が発生し、手から自在に電気を放出できるようになったことで、男性の方が圧倒的に不利な社会となる。男性は下手に外出できなくなるばかりか、給与や待遇など、あらゆる面で女性から差別を受けるようになる。男女の立場が完全に入れ替わってしまうのだ。
その世界ではキリスト教の教義も変容する。神の子イエスより、神の子を産んだ母マリアの方が重視され、(カトリックの崇敬でなく)礼拝されるようになる。それは今の私たちキリスト者から見れば異端だろう。しかし逆説的に、私たちの「キリスト教」がいかに男性中心主義化しているかを物語ってもいる。『パワー』は男女が逆転した世界の理不尽さを描き出すことで、現存する男性社会の理不尽さを、鏡のように映し出している。
『パンドラの少女』は二人の女性、ジャスティノーとメラニーに世界の運命が託されて終わる。その点も『パワー』とよく似ている。(ふみなる)
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