運命と自由意志の両立
未来と自由意志の衝突
映画『メッセージ』(2016年/ドゥニ・ヴィルヌーブ監督)は、地球に来訪したエイリアンと地球人の交流を描くSF。テッド・チャンの1998年の小説『あなたの人生の物語』を原作としている。エイリアンものは派手な地球侵略がほとんど定番だが、本作は(エイリアンの見た目は怖いが)平和的な異星間交流だ。『E.T.』(1982年/スティーブン・スピルバーグ監督)や『アビス 完全版』(1993年/ジェームズ・キャメロン監督)などに近い。本作が好きな方は、後半の展開が類似する『アビス 完全版』も気に入るかもしれない。
世界各地に謎の宇宙船が飛来。中にいる地球外生命体は7本足であることから「ヘプタポッド」と呼ばれる。彼らの目的を探るため、軍は言語学者のルイーズと物理学者のイアンを招集。2人はヘプタポッドの言語と思考の解読に挑む。
ヘプタポッドとの言語的交流を試みるルイーズ(映画『メッセージ』より)
後半、ヘプタポッドと人類が全く違う時間認識をしていることが判明する。人類が「逐次的時間認識」をするのに対して、ヘプタポッドは「同時的時間認識」をするのだ。人間は「Aが起きた結果Bが起きる」という因果論で時間を認識しているが、ヘプタポッドはAとBを同時に見ている。過去も未来もなく、彼らにとって未来は「回想するもの」。(本作の言語学的、物理学的解釈はネットに多数上がっているので、興味があれば検索してみてほしい。)
※次の一段落は重要なネタバレを含む。
ヘプタポッドと言語的交流を重ねるルイーズも、同時的時間認識ができるようになる。そして自分の未来を垣間見るようになり、イアンと結婚し、ハンナを産み、イアンと破局し、幼いハンナと死別する将来の悲劇を知ってしまう(冒頭に過去の出来事のように描かれたハンナとの死別は、未来の出来事だった)。それでもルイーズは終盤、イアンのプロポーズを受け入れ、悲しい未来をそのまま受け入れる覚悟をする。
本作において、過去や未来はなんとか改変しようと頑張るものではない。変更不能な通過点に過ぎない。その点で『テネット』(2020年/クリストファー・ノーラン監督)に似ている。こちらでは終盤、ニールは自分が死ぬと分かっていて再び過去(彼のその時点から見て未来)に逆行する。彼はそれを「現実」と表現する(ニュアンスは「運命」に近いかもしれない)。
しかしながらここで一つ疑問が湧く。未来が分かってしまい、それが避けたいものだったとしたら、別の選択をするという自由意志はないのだろうか。ルイーズはイアンのプロポーズを(悲しい未来を避けるために)断ることはできなかったのだろうか。
ルイーズの娘と過ごす日々の「記憶」とは(映画『メッセージ』より)
避けられない通過点としての未来と、自分の行動をいかようにも変え得る自由意志。未来が絶対的なものとして決まっているのなら、では人間の自由意志とは何なのか。この両者の衝突について、『メッセージ』も『テネット』も明確な答えは提示しない。あるいはこういう疑問自体が、もしかしたら「逐次的時間認識」に囚われている証拠なのかもしれない。
運命と自由意志の両立
この未来と自由意志の衝突は、SF的思考実験に留まらない。聖書にも同様の疑問を抱かせる箇所がある。最後の晩餐において、イスカリオテ・ユダの裏切りを(どこでどう裏切るかまで)イエスがあらかじめ知っていた、というくだりだ。神の子であるイエスはヘプタポッドと同じ同時的時間認識をするのだろうか(「イエスは完全に人間だった」という神学的理解と矛盾する気がするが)。ではユダの裏切りは、変更不能な通過点であり、彼に定められた「運命」だったのだろうか。
もし「運命」だったなら、その裏切りはユダ本人の100%の過失ではない気がする。しかし「自由意志」だったなら、もちろんユダ自身の過失になるが、イエスは人の自由意志さえ「確定済みのもの」として予見していたことになる。それは本当に「自由意思」と言えるのか。ユダは「予定された裏切り者」だったのか。
もちろん、「自由意志で選んだ道が同時に運命だった」という考え方は成立するかもしれない。しかし「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。」(詩篇139篇16節/口語訳)という聖書箇所は、人間の一生は既に計画済みである、と語っている。であるならユダは初めから「神の子を決定的に裏切る人間」として計画されていたことになる。それは(本当だとしたら)ユダにとってあまりに不公平な、あまりに理不尽な話ではないだろうか。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコによる福音書14章21節/口語訳)とも書かれているが、「だったら生まないでくれよ!」とユダは言いたいかもしれない。
またユダに限らず、「人の一生は神によってあらかじめ決められている」という考え方は、不遇な立場に置かれた人には納得しがたいものかもしれない。「神が自分を不幸にした」と考えられるからだ。私も「カルト化教会で20年近く苦しむと神が定めていた」なら、神を心底恨んでとっくに棄教していたと思う。それよりはルイーズの、神の意思と関係なく起こる娘との死別の方が、まだ受け入れやすいのではないだろうか。「神の悪意」が介入していない分だけ。
娘を迎えたルイーズの心境は(映画『メッセージ』より)
人が自分の人生にある程度納得するには、「自分で選んだ」という感覚が必要だろうと思う。自分の積極的な選択なら、その結果も引き受けられるから。そして自分の選択が及ばない生育環境その他の諸条件に関する不公平感については、もしかしたら「運命だった」と考えた方が気が楽になるかもしれない。それは図らずも運命と自由意志を両立させることでもある。(ふみなる)
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