アライと表明すべきか問題
「地獄への道は善意で舗装されている」
このところ「アライ(Ally)」について考えたり話したりすることが多い。きっかけはある同性愛差別事件の際、LGBTアライを名乗っていた関係者が何もしないのを見たことだ。
自ら「アライです」と表明する人はよっぽど意識が高いのだろう、と私はそれまで思っていた。積極的に差別を糾弾し、果敢に戦う人、というイメージ。しかしそのアライを標榜する人はその時、何もしなかった(結果的に差別を放置し助長することになった)。
もちろん失敗しない人はいない。咄嗟の判断を誤ることもある。全く意図せずして(多くは無知ゆえに)差別してしまうこともある。またその場で的確に対応するには、ある程度の訓練も必要になる。
だから大切なのは差別を指摘された時にどうするか、だと思う。指摘を真摯に受け止めるか、そんなことはないと頭から否定するか。その点で上記の人の対応は、アライと言えるものではなかったと思う。
では一体どういう気持ちで、その人はアライだと表明していたのか。そしてそもそもアライとは何なのか。以来、そんなことを考えている。
映画「カランコエの花」(2018年/中川駿監督)は、アライについて考えさせられる作品だ。
ある高校のクラスで、教師の思慮が足りず「クラス内にLGBT当事者がいる」という情報だけが広まる。生徒たちは興味本位で「LGBT探し」を始める。主人公はたまたま親友の一人がレズビアンだと知り、守ろうとするが、結果的に彼女を追い詰めてしまう。カランコエの花言葉は「あなたを守る」。親友を守れなかった主人公は、泣きながらカランコエのシュシュを外す。
「LGBT探し」で疑心暗鬼になる生徒たち(映画「カランコエの花」より)
この映画に、あからさまに同性愛差別をする人はほとんど出てこない。むしろほとんどが「いい人」たちだ。しかしその「いい人」たちのズレの連鎖が、鋭い刃物となって当事者の胸に刺さる。
この主人公や教師らに足りなかったのは、知識やアライとしての具体的な心構えだっただろう。善意だけでは人を助けることはできない。むしろ見当違いな方向に進んでしまい、しかも善意だけに止めることもできない、というタチの悪さを含んでいる。「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉通りに。
アライと表明すべきか問題
最近はアライという言葉に懐疑的な当事者も少なくないと聞く。冒頭の事件のようなアライと言えないアライが少なくないからではないだろうか。アライという表明に安心していただけに、裏切られた時の傷が大きい、という残酷な事態もあるかもしれない。アライという言葉はもはや警戒すべき何かになっている気もする。私自身がアライを表明しない理由もそこにある。
出入り口の見やすいところに虹のマークを掲げて「LGBTフレンドリー」を謳うキリスト教会も最近はあると聞く。当事者が安心して入れるように、という意図だろう。教会単位でアライを表明することだ。しかし内部で具体的にどのような研修や教育が行われているのか、信徒全体にどれくらい浸透しているのかは、それが(日本では)制度化されていない現状ではなかなか見えづらい。
「アライと表明すべきか否か」は、私にとってなかなか答えの出ない問題だ。「アライです」という表明は安心感を与えるのか、それとも警戒心を与えのか。表明しないと認識さえしてもらえないのか、それとも行動することが無言の表明になるのか。
最近アメリ・ラモンのオープンソース「アライになるためのガイド(Guide to Allyship)」の日本語訳を知人に紹介してもらった。たいへん参考になったので、アライについて興味のある方には読んでいただきたい。
またこのソースを使った読書会「アライになりたい人のための読書会」が10月29日(金)19:40~21:40で開催される予定だ(約束の虹ミニストリー主催/詳細は下記リンク参照)。私も参加する予定で、心待ちにしている。
全てのクリスチャンがアライであるべきだと私は考える。あらゆる弱くされた人々に連帯するのがクリスチャンのはずだから。その意味で「クリスチャン」という言葉には「アライ」という意味が含まれているのではないかな、と思う。(ふみなる)
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