魔女に襲われる話でなく、魔女を作り出す話

ふみなるのニュースレター第38号。映画『ウィッチ』は実在する「魔女」を描くのでなく、人の心の中の「魔女」を浮き彫りにする。魔女に襲われる話でなく、魔女を作り出す話。約1100字。
ふみなる 2021.11.28
誰でも

 17世紀のニューイングランド。ピューリタンのコミュニティから一つの家族が離脱し、草原の片隅に移り住む。すぐ隣に広がるのは陰鬱な森。そこには魔女が住むと言われていた。家族だけの平穏な日々は長くは続かず、不可解な出来事が起こり始める。果たしてそれは森の魔女たちの仕業なのかーー。

 『ウィッチ』(2015年/ロバート・エガース監督)は魔女を題材にした絵画のようなホラー映画。しかし魔女が堂々と登場するわけではない。長女トマシンの幻覚か、実在か、その判断は見る者に最後まで委ねられる。それより本作は人々の心に巣食う疑心暗鬼に焦点を当てている。魔女は外部でなく、人間の内部にいるのではないか、という問題提起にも見える。

 ある日、生まれたばかりの末息子サムが行方不明になる。誰かに連れ去られたとしか考えられない。最後に世話をしていた長女トマシンが疑われるが、彼女は何もしていない。では森の魔女が連れ去ったのか? 疑心暗鬼に取り憑かれた家族は終盤、自滅の道を突き進む。1人生き残ったトマシンは行く宛もなく森に足を踏み入れる。そこでは魔女たちの集会が開かれていた(現実の出来事かどうか定かでない)。トマシンは狂気の笑みを浮かべ、そこに加わって映画は終わる。

 本作は一見「敬虔なクリスチャン家族が魔女に襲われる話」に見えるが、実は「敬虔なクリスチャン家族が魔女を作り出す話」だ。魔女と目されるトマシンは誰も傷つけない。むしろ疑われたり、閉じ込められたり、殺されかけたり、終始被害を受ける。そして最後は家族を失い、行き場を失い、森の魔女にならざるを得なくなる。その意味で、魔女は最初からどこにもいなかった。トマシン自身が、皆が恐れる魔女に仕立て上げられたのだ。

 中世の「魔女狩り」は同じ構造だった。自分が魔女だと訴えられないために、先に誰かを魔女だと訴えなければならず、それが結果的に魔女を量産することになったからだ。その被害が女性ばかりだったのは、それだけ社会的に弱い立場に置かれたが故だ(その証拠に「魔男」は一部の例外を除いてほとんど聞かれない)。

(映画『ウィッチ』より)

(映画『ウィッチ』より)

 私は聖書に登場する「悪魔」や「サタン」の実在に懐疑的な立場だが、もしそれらが実在したとしても、悪魔の悪と人間の悪は明確に分けなければならないと考えている。悪いことを何でも「悪魔のせい」にするクリスチャンが少なくないからだ。悪いことが全て「悪魔」のせいであるなら、人間は自ら悪を犯す存在でなく、であれば罪もなく、であれば十字架も許しも必要なくなる。「悪魔」の存在を強調すると、そういった矛盾に陥る。都合のいい責任転嫁になる。

 しかしそういった狡さ、悪どさこそが「悪魔的」ではないだろうか。

 トマシンから全てを奪い、森に追いやったのも、魔女でなく人間の悪だ。その意味でもやはり、悪魔はどこか外部にいるのでなく、人間の中にいる。人間自身が悪魔なのだ。(ふみなる)

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