代わってあげたい

ふみなるのニュースレター第32号。グロテスクなゾンビ映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」が内包する父と娘の和解の物語。改めて「愛」とは。約2200字。
ふみなる 2021.10.17
誰でも

父と娘の和解

 「アーミー・オブ・ザ・デッド」(2021年/ザック・スナイダー監督)はNetflixで公開されたゾンビ映画。長くDCユニバースに携わっていたスナイダー監督の久しぶりの長編オリジナルだ。監督らしい残酷描写がてんこ盛りの、原点回帰的な作品かなと私は思った(血飛沫や人体破壊が苦手な方にはお勧めできない)。特に冒頭の「ゾンビ大戦」の部分がシニカルで良い。

ゾンビで埋め尽くされるラスベガス(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

ゾンビで埋め尽くされるラスベガス(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

 舞台はゾンビが蔓延し、完全に隔離されたラスベガス。アメリカ軍のミサイル攻撃が始まる前にカジノの金庫から2億ドルを持ち出すため、先の「ゾンビ大戦」で活躍した傭兵団が雇われる。簡単な任務のはずだったが、壁の向こうのゾンビたちは高い知能と運動能力を備えるまでに進化してした。加えて傭兵のリーダー、スコットは成り行き上、疎遠になっていた娘のケイトを連れて行く羽目に。果たして彼らは2億ドルを回収し、無事に生還できるのか。

 本作はゾンビ映画あるある的な面白さがあったが、スナイダー監督はきっと「父と娘の和解」を描きたかったのではないか、と初見時に思った。ネタバレすると、傭兵団は全滅し、任務は達成できない(実は雇用主には別の目的があり、傭兵団は捨て駒でしかなかった)。スコット自身は生還するチャンスがあったが、無謀な行動に出たケイトを助けるために命を落とす。墜落したヘリコプターのそば、絶命寸前のスコットは辛うじて残った現金をケイトに渡し、「ロブスターロールを屋台で出すことに決めた」と仕事の話をし、息を引き取る。父娘は確執を越え、ついに和解する。

衝突してばかりのスコットとケイト(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

衝突してばかりのスコットとケイト(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

 このラストシーンに、スナイダー監督の実の娘、オータムへの思いが込められているのではないかと思った。

 2017年、スナイダー監督がDCユニバースの「ジャスティス・リーグ」を撮影中、20歳のオータムは自死する。打ちひしがれたスナイダー夫妻は同作から降板(妻のデボラ・スナイダーは制作を務めていた)。「アベンジャーズ」のジョス・ウェドン監督が後を引き継ぐことになった(結果、「ジャスティス・リーグ」はスナイダー監督の意図から遠く離れたものになった)。

 この経緯を知っていたからか、本作の父スコットと娘ケイトの関係が否応なく目に入った。

 先の「ゾンビ大戦」の際、スコットはゾンビ化した妻を殺さざるを得なかった。それを目撃させられたケイトはスコットを今も憎んでいる。以来疎遠になっていた二人だが、今回の作戦でやむなく行動を共にすることになる。しかしやはり衝突ばかり。またケイトは自分勝手な行動ばかり(ケイトの行動に「イラつく」という感想を複数目にした)。だがスコットはそんな彼女に辛抱強く語りかけ、その身を案じ、最後は命を賭して救出する。それはスナイダー監督が「救えなかった」オータムを、劇中だけでも「救いたかった」からではなかったか。

娘の無事に安堵、死んでいく父(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

娘の無事に安堵、死んでいく父(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

 本作は悲しい結末を迎えるが、唯一ケイトが生き残るところに、スナイダー監督の亡き娘への思いが垣間見える。制作当初は誰も生き残らない設定だったそうだ。それをあえて変更したのは、監督にとって必然だったのかもしれない。

代わってあげたい

 若い頃、夜間の救急外来で勤務していた。東京下町のせいか急性アルコール中毒症と交通事故の患者さんが多かった。その次に多かったのが喘息発作を起こしたお子さんだった。ゼイゼイ苦しそうに肩で息をするお子さんを抱っこする親御さんを、多い時は一晩で何組も見た。

 当時、そんな親御さんたちがよく口にしたのが、「かわいそうで(子どもを)見ていられない。自分が代わりに苦しんだ方がマシだ」という趣旨の言葉だった。多くの親御さんが異口同音に言っていた。自分が苦痛を負う方が、我が子の苦痛を見せられるよりマシだ、と。

 本作の終盤、多くの仲間を失いながら、スコットは辛うじてヘリコプターで脱出する。が、すぐにケイトを助けに向かう。この時点で彼女の生死は分からず、無駄足になるかもしれない。ミサイル攻撃も秒読みだ。しかし彼は一瞬も迷わない。「ケイトが苦しむくらいなら自分が苦しんだ方がマシだ」と思ったのかもしれない。

カジノでの激しい銃撃戦(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

カジノでの激しい銃撃戦(映画「アーミー・オブ・ザ・デッド」より)

 似たような状況は「エイリアン2」(1986年/ジェームズ・キャメロン監督)にも見られる。核爆発間近の基地から辛うじて脱出したリプリーたちだが、エイリアンに捕まったニュート(基地で唯一生き残った少女)を助けるため、悪夢のようなエイリアンの巣窟にまた戻って行く。リプリーは少しも躊躇しない。やはり苦しむ子を見捨てることができなかったのではなかったか。

 時に他者の痛みは、自分自身の痛みに勝る。

 その点でキリスト教を考えてみる。「神(父)がイエス(子)をあえて見殺しにした」と日本の教会では一般的に解釈されている。全人類を贖うため、神はイエスを身代わりにするしかなかったのだ、と。つまり子を見殺しにした父だ。スコットやリプリーとは逆で。

 私は一応クリスチャンだが、この考え方には違和感がある。神の命に全人類を贖う力があるのなら、子(イエス)でなく自分が死んでも良かったのではなかったか。子を世に遣わすのでなく、自分が行けば良かったのではなかったか。と思うからだ。

 ちなみに私が神で、「自分の子を処刑すれば、他の全員が助かる」という条件を課されたら(神が条件を課される、というのも不思議な話だが。いったい誰に課されるのか?)、正直言えば、「自分の子を犠牲になんてできない。いくら他の全員のためであっても」と答えるだろう。皆さんはどうだろうか。

 いずれにせよ、相手が子どもであってもなくても、「この人が苦しむのを見せられるくらいなら自分が苦しんだ方がマシだ」「代わってあげたい」と思う気持ちを、「愛」と言うのかなと思う。その意味で「アーミー・オブ・ザ・デッド」は、そのグロテスクな表層に反して、子を愛する親の物語なのだ。(ふみなる)

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