「悪」を考える 前編
こんにちは、ふみなるです。
今回はヒーローものの悪役を何人か取り上げて、その「悪」について考えます。ヒーローものは当然ながらヒーローが注目されやすいですから、たまには悪役について考えるのも良いのではないでしょうか。書いていたら長くなりましたので、前後編に分けてお届けします(今回はキリスト教と関係ない内容です)。
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「悪」の種類① 恐怖支配型
「鬼滅の刃」の悪役、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん←読めないよ……)の目的は「死の克服」です。鬼の弱点は太陽光なので(西洋の吸血鬼と同じです)、それを克服するための薬、「青い彼岸花」を何世紀も探し続けていました。
死の克服という目的は「ハリー・ポッター」シリーズのヴォルデモートや、「ジョジョの奇妙な冒険」のディオと同じです。3人とも生きることに並々ならぬ執着を見せ、最期までしつこく戦いました。どれも強烈なカリスマ的悪役です。まずこの3人の「悪」から考えてみましょう。
カリスマ的な悪役たち
彼らの目的は悪事そのものでなく「自分が死なないこと」です。不老不死を得るためなら悪事も辞さない、というスタンスです。逆に言えば必要のない悪事は働きません。その点「ただ悪いことがしたいだけの悪」とは違います。
また「自分が死ななければ周りは(配下でさえも)どうでもいい」というスタンスです。基本的に他人は眼中にありません。殺す必要があれば容赦なく殺しますが、そうでなければ放置します。
彼らにとって大切なのは善悪の基準でなく、自分の願望をいかに実現するか、です。目標達成にひたすら忠実で、その行為が善が悪かは気にしません。中島みゆきは「君が笑ってくれるなら/僕は悪にでもなる」と歌いましたが、無惨たちは「僕の願いが叶うなら/悪でも何でもいい」とか歌うことでしょう。
無惨、ヴォルデモート、ディオに共通するのは圧倒的な「力」と、それを利用した「恐怖による支配」です。この3人の配下たちは基本的に心酔からでなく、恐怖から従っています。もし無惨たちが力を失って失脚したら、配下が従い続けるかどうか微妙です。実際ヴォルデモートが赤ん坊のハリーに敗れた時、その配下は散り散りになり、ヴォルデモートを貶める発言をする者まで現れました。
「恐怖による支配」は、組織的な脆さが弱点となります。
「悪」の種類② 人心掌握型
次に挙げるのは「ハリー・ポッター」シリーズのスピンオフであり前日譚である「ファンタスティック・ビースト」シリーズの悪役、グリンデルバルド。彼は前述の3人とは全く別のタイプで、不老不死より「他者支配」を望みました。永遠の命でなく、大勢の配下を従えること(コントロールすること)に魅力を覚えたのです。ですから彼には配下が必要でした。そして一人一人に合わせて巧みに語りかけ、自分に心酔させました。(必ずしも配下を大切に扱ったということではありません)。
つまり無惨、ヴォルデモート、ディオはそれぞれ「恐怖による支配」で組織を作りましたが、グリンデルバルドは「人心掌握による支配」で組織を形成しました。
前者の配下はある意味「仕方なく」従いましたが、グリンデルバルドの配下は積極的に行動します。これはカルト宗教と似ています。カルトの構成員は教祖に優しくされ、助けられ、魅了され、道を示してもらうことで「居場所」と「役割」と「目的」を与えられていますから、行動あるのみです(それは宗教そのものが持つ性質の一つと言ってもいいかもしれません)。
その意味で無惨、ヴォルデモート、ディオはプレイングマネージャーや選手兼監督といった立ち位置でしょう。自分が率先して戦う分、組織管理が手薄になりがちです(ヴォルデモートがスネイプの重大な裏切りに気づかなかったのは、そのせいかもしれません)。
一方でグリンデルバルドは明らかにカルト教祖タイプです。彼が本格的に登場する「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」終盤の集会は、まさにカルト教団のそれです。配下たちは誰も恐れておらず、むしろ高揚しています。無惨やヴォルデモートやディオの配下であれば、こうはなりません。
パリの墓地で開かれたグリンデルバルドの集会(映画「ファンタステックビーストと黒い魔法使いの誕生」)
「悪」の種類③ 祭り上げられ型
そのどちらにも当てはまらない第三の「悪」が、DCコミックスの名物ヴィラン(敵役)、ジョーカーです。ここで注目したいのは2019年の映画「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)で描かれた、斬新なジョーカー像です。彼は「祭り上げられた悪」でした。
アーサー・フレック(のちのジョーカー)は売れないコメディアン。過去に受けた脳の損傷で突然笑い出してしまう後遺症がある上、精神疾患のため多量の薬を服用しています。そのせいで仕事はトラブル続きで解雇寸前。家には介護が必要な母親がいますが、頼れる親族も友人もいません。特別な力も才能もありません。まさに人生に行き詰まっています。
後遺症で突然笑い出してしまうアーサー・フレック(映画「ジョーカー」)
そこに不幸な出来事が重なり、成り行きで人を殺してしまします。あとは転落する一方。ズルズルと悪の道に入っていくのでした。
終盤、警察に逮捕されたアーサーはパトカーの後部座席に乗せられます。抵抗する様子もなく、捕まったことさえどうでもいいように見えます。しかし街では大規模な暴動が起きており(アーサーが意図せず扇動した暴動でした)、アーサーは巻き込まれる形でパトカーから助け出されます。そして暴徒たちに無理やり、反逆のシンボルとして祭り上げられるのでした(ここでアーサーはジョーカーになりました)。
ジョーカーはDCコミックスのカリスマ的ヴィランですが、前述の無惨たち4人のようなはっきりした目的は持っていません。不老不死を求めるのでもなく、権力を求めるのでもなく、人を支配したいのでもありません。常に(特に本作においては)受け身です。日和見的に悪に染まり、意図せず人心を煽り、たまたま祭り上げられて悪のシンボルにされてしまいました。当の本人は強烈な志のない、冷徹な実行力もない、そのメイク通りのただの道化(ピエロ)です。もしかしたらその状況自体がジョーカーにとって「笑える」コメディなのかもしれませんが。
このようにジョーカーは読めない悪役です。その悪役としてのズレ、不老不死や世界征服といったステレオタイプな欲求の欠落、予測不能さ。それが悪役ジョーカーの、唯一無二の魅力かもしれません。
"We live in a society"
ところでジョーカーと言えば、ネットミーム”We live in a society“(直訳すると「我々は社会に生きている」)が最近話題です。
これはジョーカー本人が何かの作品で言った台詞でなく、9GAGというソーシャルメディアサイトで(発祥不明ながら)流行したものだそうです。社会から爪弾きにされた者の代表と言えるジョーカーが、「いや、でも俺たちこの社会で生きてるんだよね? ハハッ」と冷笑的に語るイメージでしょうか。最近ではザック・スナイダー版「ジャスティス・リーグ」で、ジャレット・レト演じるジョーカーがこの台詞を言うことで注目されました(※この作品はまだ日本では視聴できません。2021/4/11現在)。
ジョーカーというヴィランがここまで注目を集め、支持されるようになったのは、おそらく2008年の映画「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン監督)がきっかけです。故ヒース・レジャーがジョーカーを怪演し、主役のバッドマン(クリスチャン・ベイル)を喰うほどの人気でした。それ以前のジョーカーは「気持ち悪いピエロ」くらいの認識で、大勢いるヴィランの中の1人でしかなかったと思います。
近年ジョーカーを演じた俳優たち
そしてこの変化は、時代背景の影響もありそうです。「ジョジョの奇妙な冒険」の作者、荒木飛呂彦は季刊誌kotobaでこう語っています。
「主人公アーサー(ジョーカーのこと)が、社会に押し潰されそうになっている無情など、共感する部分が多々ありました。まさに今の時代の象徴と言いますか、この時代だからこそ通用する演出だなと感じました。」 ( )内は筆者
つまり社会に押し潰されそうになっている人が多い今の時代だからこそ、社会に押し潰されてしまったジョーカーが共感を集めるのだ、ということです。
日本も格差が進み、様々な差別や暴力が顕在化しています。この日本社会に押し潰されそうな人、既に押し潰されてしまった人がどれだけいることでしょうか。このジョーカーは自分だ、自分はこの社会に生きているのに爪弾きにされているのだ、という心情が、”We live in a society“を支持しているのかもしれません。
「非モテ男子」vsフェミニズムの不毛さ
とはいえ、ジョーカーという存在に共感し、励まされるのは、主に男性ではないでしょうか。アーサーは売れないコメディアンの、精神疾患持ちの、醜悪な容姿の、恋人がいない、今風に言えば「非モテ男子」だからです。
しかし女性の視点で見れば、アーサーは成人男性であり、構造的には強者です(実際、同じアパートに住むシングルマザーのソフィーを怯えさせたのは、アーサーが成人男性だったからです)。アーサーが追いやられた苦境は確かに理不尽です。しかし、ソフィーのような女性が構造的に受けてきた(受け続けている)理不尽に、目を向けたことはあったでしょうか。
考えてみれば、ヒーローものの悪役は概して男性です(今回取り上げたのも全員男性でした)。女性の悪役もいますが少数ですし、組織のトップであることはもっと稀です。何かに反抗したり、明確な目的を持って悪を行ったりするのも男性の方が有利だとしたら、悪役の世界にもジェンダーギャップがあるということです。
女性差別の話になると、必ずと言っていいほど「男性だって大変だ」という主張が(いわゆる「非モテ男性」を取り上げて)出されます。確かにアーサーも酷い目に遭ってきましたし、一般に男性が苦労しているのも事実ですが、「女性差別とどっちが大変か」という視点で語るのは男性と女性を同列に置いてしまうので公平でありません(男女の格差は明らかなのですから)。また虐げられている者どうしが争う点も、不毛でしかありません。糾弾すべき相手は他にいるのではないでしょうか。
わたしが常々思うのは「フェミニズムは男性をも救う」です。女性を抑圧する構造は、実は男性をも不自由にし、抑圧しているからです。昨今特に顕著になった「非モテ男子vsフェミニズム」の構図は、その点でまったく的外れではないかな、とわたしは思います。
終わりに
さて「悪」にまつわる話が思わぬところに着地しましたが、前半はここまでとします。次回後半は「悪」と「善」の関係や、聖書に登場する悪魔やサタンについて書く予定です。どうぞご期待下さい。
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以上、ふみなるでした。今週も皆さんにとって良い1週間になりますよに!
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