「悪」を考える 中編
こんにちは、ふみなるです。
theLetterの投稿6回目です。今回も前回に続いて「悪」について考えます。前後編に分けるつもりでしたが、収まりそうにないので前中後編の3回に分けることにしました。今回は中編です(約3000文字)。
前回の記事はこちら↓
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「悪」が先、「善」が後
「鬼滅の刃」の悪役、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん……覚えていただけましたか?)が「永遠の命」獲得を目的としたのは前回書いた通りです。彼は栄養摂取のため人間を襲い、活動範囲を広げるため鬼を増やしました。
太陽光の克服に執着する無惨(「鬼滅の刃」)
それを止めるのが「鬼殺隊」という無認可の任意団体です。主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう……やはり読めません)らもここに属します。鬼殺隊の目的は当然ながら「鬼を滅ぼして安全な世界を作ること」です。つまり鬼の存在が前提となった組織です(鬼がいなければ作られませんでした)。これはおそらく全てのヒーローものに共通した構造です。
「ハリー・ポッター」シリーズのヴォルテモート(悪)を止めようとするハリー・ポッター(善)。
「ジョジョの奇妙な冒険」のディオ(悪)を止めようとするジョナサン・ジョースター(善)。
「仮面ライダー」の各種怪人(悪)を止めようとする仮面ライダー(善)。
悪と善は常に対です。そして概ね「悪」が先で、「善」が後です。
明確な目的を持って悪行を働く「悪」がいて、それを止めるために「善」が登場します。その意味でヒーローは受け身です。「悪い奴がいるから退治しよう」というスタンスで、これはいわばマイナスをゼロに戻す行為と言えます。
悪が存在しない状態=ゼロ
悪が悪を行う状態=マイナス
善が悪を排除した状態=ゼロ(≒元に戻った状態)
この場合、ヒーロー(主人公)は何の主張も発展的な目的も持たず、ただ悪役を排除するためだけに存在します(もちろんそれも大切なことですが)。悪を倒して世界に平和が戻ったらお役御免です。悪が明確な目的を持っているのに対して、善は「悪を倒す」以外の目的を持っていないからです。
彼らはゼロに戻すことに奮闘しますが、そのゼロより上の部分(プラス部分)にはノータッチなわけです。つまり「期間限定の善」「条件付きの善」「受け身の善」です。
受け身の「善」、考えはじめた「善」
「仮面ライダー」シリーズは日本産のヒーローもので今も根強い人気がありますが、特に「平成ライダー」シリーズ(平成以降にリブートされたライダーたち)の主人公は無職だったり職業不定だったりと、目的もなくフラフラしている印象があります(全員ではありません)。そんな彼らがたまたま仮面ライダーに変身する力を得た途端、なぜか自動的に悪の組織と戦うことになります。布袋寅泰は「何故ギターを弾くのですか?」と訊かれて「そこにギターがあるから」と答えたそうですが(真偽は不明)、平成ライダーたちは「何故悪の組織と戦うのですか?」と訊かれたら「そこに悪がいるから」とか答えそうです。
仮面ライダーアギトでは警察が作った官製ライダーが登場した(「仮面ライダーアギト」)
では彼ら自身が(悪の組織と戦うこと以外に)どんな理想を持っていて、どんな活動をしているのかというと、これも描かれません。それは彼らがあくまで「悪を倒さなければならない」「平和を維持しなければならない」という受け身の立場で、それ以上に発信すべき何か、切実な何かを持ち合わせていないからです(そこまで設定が作り込まれていないのもあるでしょう)。
「七人の侍」(1954年、黒澤明監督)やそのリメイクの「荒野の七人」(1960年、ジョン・スタージェス監督)、そのまたリメイクの「マグニフィセント・セブン」(2016年、アントワーン・フークワ監督)も同様です。主人公たちは戦いの後、村を去ります。ただ悪と戦うのが目的で、それ以上の主張はありませんでした(彼らはいわば傭兵でしたが)。
その点で革新的だったのはMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」(2016年、アンソニー&ジョー・ルッソ監督)です。これはアベンジャーズというヒーロー集団(単体で映画の主役が張れるようなヒーローが一同に会した豪華チーム)が、主義主張の違いから対立してしまう物語です。誰からも管理されることなくヒーロー活動を続けるべきだと主張するスティーブ・ロジャース(キャプテン・アメリカ)と、国連の管理下に入るべきだと主張するトニー・スターク(アイアンマン)が特に激しく反目し、最後は訣別してしまいます。
「受け身の善」という構図から離れ、「善」の在り方について主人公たちが悩む構図です。自分たちはどんな存在であるべきか。どんな判断基準で戦うべきか。もっと言えば、誰を敵(悪)とすべきか。マイナスからゼロでなく、ゼロからどんな方向のプラスへ進むべきか、といった議論です。
同じMCUの「キャプテン・マーベル」(2019年、アンナ・ボーデン&ライアン・フレック監督)は初めて女性が主役で、かつ「愛想笑いをしない女性」を前面に出した映画ですが、ここでも「善とは何か」が問われます。当初、彼女は本来敵でない相手と戦わせられていました(その相手から見れば彼女自身が「悪」でした)。本当の敵を知るため、彼女は自分のルーツを探る旅に出ます。「善とは何か」「自分とは何か」「本当の敵は誰か」を探求するヒロインです。
サノスとの最終決戦に集まった女性アベンジャーズ(「アべンジャーズ/エンドゲーム」)
同じような葛藤はサム・ライミ監督版「スパイダーマン」三部作(2002年〜2007年)にも見られます。トビー・マグワイア演じるピーター・パーカー(スパイダーマン)は「ヒーローとして活動すると学業が疎かになってしまう」とか「このまま自分の人生を捧げてスパイダーマンとして生きなければならないのか」とか「好きな人に好きだと告げられないのか」とか、等身大の葛藤を見せます。
これは「悪に対抗するだけの受け身の善」から、「等身大の善」への転換です。単に悪に反対するのでなく(また悪を安易に決めつけるのでなく)、なぜ戦うのか、自分は何者なのか、誰が敵なのか、と考えはじめた「善」です。
無個性の天秤
ここで興味深いのは、ヒーロー側(善)の内面が深く掘り下げられ、個性や目的が付与され、葛藤が強くなるにつれ、ヴィラン側(悪)が無個性になっていく点です。MCUの作品群は特にその傾向が顕著で、ステレオタイプなヴィランが少なくありません(前出の「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」はヴィランそのものが不在でした)。
例えばアベンジャーズ最大の敵であるサノスは、「全宇宙の人口を半分に減らす」という大胆な計画を実行しますが、その動機や背景は十分に語られません(その配下たちにおいては名前と能力しか語られません)。単に「悪い奴だ」という印象です。
つまり「明確な目的に突き進むカリスマ的ヴィランとそれを止めるだけの受け身なヒーロー」という構図から、「善とは何かと悩みつつ戦うカリスマ的ヒーローと無個性なヴィラン」という構図への逆転です。こっちが立てばあっちが立たない、みたいな天秤現象ではないでしょうか。こっちの個性を深めればあっちの個性が浅くなる、と言いますか。個人的にちょっと面白いなと思いました。
サノスの配下たちのキャラ描写は非常に少ない(「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」)
その点「鬼滅の刃」は善側も悪側も個性的なキャラクターがてんこ盛りで、それぞれのバックストーリーは涙なしに読めないものばかりです。そこが「鬼滅の刃」の人気の秘訣かもしれません(約2時間の映画と長期連載漫画とで、描写の幅が違ってくるのは当然ですが)。
聖書に記された「悪魔」
さてキリスト教の話です。
聖書には「悪魔」や「サタン」が登場します。旧約聖書の創世記から新約聖書の黙示録に至るまで(つまりキリスト教の聖書の最初から最後まで)結構な頻度です。悪魔が「いる」という設定です。
しかし現代的には、キリスト教徒は「悪魔はいる」派と「悪魔はいない」派に分かれます。前者は悪魔は今も活発に活動していると考え、後者は悪魔は寓意だと考えます(前者の中には「悪魔に取り憑かれてしまう」と日々恐れている人もいるので、大変だなと思いますが)。
※ちなみにペンテコステ派キリスト教徒と悪魔のリアルな「現場感覚」についてはこちらのnoteに書いています。↓
聖書の悪魔は、主に人間を誘惑したり陥れたりする存在です。エデンの園ではアダムとエバを騙して罪を犯させ、ヨブ記では神をそそのかしてヨブを苦しめるよう仕向けました。人間に直接襲いかかってくる怪物でなく、陰でコソコソ立ち回るずる賢い「小悪魔」的イメージでしょうか(黙示録ではもうちょっと禍々しい存在として登場します)。
この悪魔(あるいはサタン)には、今まで取り上げてきたカリスマ的ヴィランのような明確な目的や、冷徹な行動力や、何がなんでも諦めない情熱のようなものは見られません(少なくともそういう描写はありません)。人間を貶めてやろう、神から離れさせてやろう、不幸にしてやろう、という目的はありそうですが、それでも日和見的に人間にちょっかいを出すような、気まぐれな印象を受けます。
荒野でキリストを誘惑しようとした悪魔(ジョン・リット・ペニマン作 1818年)
ヒーローものの典型的な構図は「目的に突き進む悪と、それを止めようとする受け身な善」でしたが、聖書の構図は「神(善)との関係に四苦八苦する人間(善に傾いたり悪に傾いたりする)と、その人間の足を引っ張ろうとする悪魔(悪)」というようなものです。これは教派によって、あるいは聖書のどこを読むかによって多少異なるかもしれませんが。
全体的に見ると悪魔の方が受け身というか、オマケのような気さえします。キリスト教において悪魔はカリスマ的ヴィランにはなり得ないのかもしれません(なったら困るのかもしれません……)。
終わりに
今回はここまでです。次回後編は、聖書に記された「悪魔」を中心に書く予定です。どうぞお楽しみに。今週も皆さんにとって良い1週間となりますように。
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