キリスト教を知るともっと分かるようになる映画の話/第3回「テルマ」

キリスト教に直接関係ない映画に潜むキリスト教要素を読み解きます。今回は2017年のノルウェーの映画「テルマ」。
ふみなる 2021.04.04
誰でも

 こんにちは、ふみなるです。

 theLetterの投稿第4回目です(基本的に毎週日曜更新です)。

 前回に続き、「キリスト教に直接関係ない映画の中に背景として描かれるキリスト教要素」について書きます。今回取り上げるのは2017年のヨアキム・トリアー監督作「テルマ」です。

各誌から絶賛された映画「テルマ」

各誌から絶賛された映画「テルマ」

 「テルマ」はなぜかホラー映画に分類されていますが、実際は「宗教2世が親と宗教から自立する物語」です。大学を舞台とした青春、恋愛ものでもあります。静かな絵画のような作品で、ホラーとは程遠いなあというのがわたし個人の印象です(一部にショッキングなシーンはありますが)。

 またキリスト教要素が非常に強いですが、例によって一切説明がありません。今回はそのあたりを書きたいと思います。

※ストーリーの詳細は書きませんが、ネタバレ前提ですので未見の方はご注意下さい。※ theLetterはメールアドレスをご登録いただくと更新時にメールで記事を受け取ることができる、ブログ+メルマガ的サービスです。ぜひこの機会にご登録下さい!

宗教2世の苦悩

 テルマは大学進学を機に親元を離れ、都会(オスロ)に出てきた少女です。両親から毎日電話やメールがあり、いかにも「一人娘が都会で羽目を外さないように」心配されている様子。しかし、両親が本当に心配しているのは全然別のことでした。

 テルマの家族は熱心なキリスト教徒です。その描写は多くありませんが、父親の台詞の端々からその厳格さがうかがえます。テルマが教会で若者たちと讃美を歌う場面がありますが(おそらく日曜礼拝でしょう)、みんな手を挙げて恍惚の表情をしていますから、「ファイトクラブ」の記事でも取り上げたペンテコステ派か、それに近い福音派の教会だと思います(ペンテコステ派と福音派はともに保守的で厳格な教会が多いです)。

教会の若者たちと讃美を歌うテルマ(映画「テルマ」)

教会の若者たちと讃美を歌うテルマ(映画「テルマ」)

 テルマ自身、真摯に信仰生活を送ってきたようです。他の信仰者を見下すような言動もありますから、信仰的な優越感さえ持っていたでしょう。

 しかし親元を離れた大学生活の中、とりわけアンニャという少女と出会ったことで、信仰が揺るぎます。飲みに誘われたり、パーティでタバコを吸ったりと、今まで信仰的に禁忌とされてきたものを体験することで、開放感を覚えたのです。そして何よりアンニャとの触れ合いに、かつて感じたことのない胸のときめきを覚えます。テルマは自分の中の同性愛指向に、初めて気付いたのでした。

 テルマが属する教会は同性愛指向を禁忌としています(ペンテコステ派や福音派は実際に禁忌としているところがいまだ多いです)。彼女はおそらくそれまで、教会で教えられてきたこと(同性愛=禁忌)に疑いを持ったことがなかったでしょう。冒頭のレストランのシーンで、同性カップルを見て居心地悪そうにする描写がそれを示しています。

 しかしここへきて、彼女は大きな壁に突き当たりました。教会が禁忌としているものが自分の中に現に存在している、という壁です。他人事だと思っていたことが、実は自分事だったのです。

アンニャに思いを寄せるようになるテルマ(映画「テルマ」)

アンニャに思いを寄せるようになるテルマ(映画「テルマ」)

 成り行きでアンニャとキスした夜、大学の寮の一室で、テルマは壁に向かって(まさに壁に向かって!)祈ります。 

「主よ、どうか、このような考えからお救い下さい」「主よ、このような考えを捨て去らせて下さい」
映画「テルマ」日本語字幕

 「このような考え」とは同性を愛し求める心のことです。

 教会で教えられてきたこと、自分が信じてきたことに反するのは許せない(許されない)と考えたのでしょう。アンニャへの思いを「間違ったもの」として、必死で否定しようとしたのです。

 これは残念ながら、キリスト教会が犯してきた(そして犯し続けている)害悪の一つです。すなわち「同性愛は罪」という主張を繰り返し、クリスチャンの子たちの同性愛指向を否定し、本人たちにも否定させるよう仕向け、そうして個を殺していくのです。実際にアメリカでは、「同性愛矯正キャンプ」で無理やり異性愛指向に「治す」試みが以前は盛んに行われていました(ここで同性愛指向の子が体験する葛藤については、映画「ある少年の告白」に詳しいです)。

 テルマも最初、自身の同性愛指向を否定し、アンニャを遠ざけようとします。これは宗教2世だからこそ課せられた苦悩です。神様に喜ばれたい、親に認められたい、という純粋な動機で、教えられるままに自分のあるがままを否定してしまうのです。しかしいくら否定しても自分のあるがままを捨て去ることなどできません。なぜならそれが自分自身だからです。結果、テルマのような宗教2世は、延々と苦悩することになります。

 今もそれぞれのレベルで苦悩している宗教2世は多いでしょう。本作はそういった宗教2世たちの映画なのです。

信仰に縛られた親の苦悩

 実はテルマには超能力のようなものが備わっています。父親いわく「強く願ったことを実現させてしまう力」ですが、より正確には「消えてほしいと願った人間を消してしまう力」です。幼少期に、その力でまだ赤ん坊だった弟を殺してしまったことがありました(テルマ自身にその自覚はありませんでしたが)。

 そして今度はアンニャを消してしまいました。同性愛指向を否定するには、彼女の存在が邪魔だったのです。しかし自分がしてしまったことに気づいたテルマは打ちひしがれ、休学して両親のもとに帰ります。

アンニャを消してしまったと気付くテルマ(映画「テルマ」)

アンニャを消してしまったと気付くテルマ(映画「テルマ」)

 そんな彼女を待っていたのは、薬漬けの日々でした。医者である父親が強い精神薬を彼女にのませます。テルマは意識朦朧として、動くこともままなりません。ほとんど監禁生活です。

 ここで両親が何に恐れていたかが分かります。テルマが都会で人と触れ合うことで、また誰かを消してしまうのではないか、と恐れていたのです 彼女を動けなくして家に閉じ込めておくのが最善だ、と両親は考えました。

 父親は言います。「都会に行かせたのは間違いだった」

 テルマは混濁する意識の中でこう返します。「私を自由にさせて、パパ」

 この父親の行動は肯定できませんが、信仰者である親が子に自分の信仰を押し付ける、その姿勢は多くの信仰家庭に共通したものです。

 例えば福音派のクリスチャンは「神を信じれば天国へ行ける=信じなければ地獄へ堕ちる」と信じています。ですから子どもにも「信じさせねばならない」と当然のように考えます。子どもが地獄へ堕ちることがないように、という親心と言えるかもしれません。彼らなりに子どもの最善を考えているです。

 しかしその「最善」は、本当に子どものためでしょうか。親が安心するためではないでしょうか。そのために子どもの自由を奪い、抑圧していないでしょうか。嫌がる子を無理に教会に連れて行ったり、したいことを諦めさせて教会を優先させたり。本作で言えば、父親がテルマを薬漬けにして監禁したように。

 信仰は良いもののはずですが、このように人を害するものになり得ます。健全なもののはずですが、不健全なものになり得ます。幸福をもたらすものでなく、不幸をもたらすものになり得ます。

テルマをどう扱うべきか葛藤する父親(映画「テルマ」)

テルマをどう扱うべきか葛藤する父親(映画「テルマ」)

 そうやって子どもを縛り付ける親自身も、実は自由ではありません。親自身も信仰に縛られ、「こうでなければならない」という固定観念に苦しめられているのです。自分が縛られているからこそ、子をも縛ろうとするのです(その自覚はないかもしれませんが)。

 その意味で宗教2世の苦悩は、親の苦悩の反映と言えるかもしれません。

自立した宗教2世の信仰はどうなるのか

 終盤、テルマは祈りの中でこう告白します。

「父の期待が重荷です」「なぜ私自身でいてはいけないんですか」
映画「テルマ」日本語字幕

 テルマは自分が置かれた状況を不当と考えます。親(教会)の言うなりの人生でなく、自分の人生を生きたいと願います。そして(自覚しませんでしたが)能力で父親を消してしまいました。

 もはやテルマを止めるものはありません。彼女は家を出て大学に戻り、再び姿を現したアンニャとくちづけし、映画は幕を閉じます。

 これは見方によってハッピーエンドともバッドエンドとも取れるでしょう。わたしの目には「宗教2世が親と宗教から自立する物語」に見えました。親や教会の束縛にノーを突きつけた少女が、不確かながら自分で選ぶことのできる人生を歩みはじめたのです。その意味でハッピーエンドではないでしょうか。

 ではテルマは、キリスト教信仰を捨てたのでしょうか。教会から見れば彼女は背教者でしょう。しかし彼女は自分なりに信仰を脱構築したのだとわたしは思います。同性愛指向を否定する信仰でなく、肯定する信仰に。自由を奪う信仰でなく、自由を与える信仰に。(実際、同性愛指向を肯定する教派も沢山あります。)

 その意味で、テルマは親から与えられた(押し付けられた)信仰を信じるのでなく、自分自身が見出した信仰を信じるようになったのだと思います。これは全ての宗教2世に必要なプロセスではないでしょうか。

 このように「テルマ」は、一般にあまり知られていない宗教2世の実態や苦悩をよく表した稀有な映画です。宗教2世の方、信仰の脱構築を経験した方なら、より共感できるかもしれません。

大学に戻ったテルマはついに自分の人生を生きはじめる(映画「テルマ」)

大学に戻ったテルマはついに自分の人生を生きはじめる(映画「テルマ」)

その他のうんちく

・蛇の描写

 劇中に2回ほど、蛇がテルマの体を這う描写があります。これはイメージであって実物ではありませんが、彼女の罪悪感を表していると考えられます。というのはキリスト教において蛇は悪魔やサタンの象徴だからです。エデンの園においてアダムとエバ(原初の人間)に罪を犯させたのも蛇だとされています(旧約聖書より)「自分は罪を犯している」という意識が、蛇のイメージを作り出したと考えられます。

・映画「キャリー」との相関

 「テルマ」はスティーブン・キングの「キャリー」と似た作りになっています。超能力を持つキャリーが狂信的なクリスチャンである母親と訣別し、自分をいじめた子たちに復讐するスプラッターホラーですが、「テルマ」に興味を持たれた方は楽しめるかもしれません。1976年に映画化され、2013年にリメイクされています。

 ちなみに「キャリー」は彼女の初潮に始まり大量虐殺に終わるので、「血に始まり血に終わる物語」とも呼ばれています。

「テルマ」と似た作りの「キャリー」(映画「キャリー」2013年リメイク版)

「テルマ」と似た作りの「キャリー」(映画「キャリー」2013年リメイク版)

終わりに

 今回は以上になります。最後までお読み下さり、ありがとうございました。次回は「鬼滅の刃」等を題材にして「悪の存在」について考えていきます。

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