キリスト教を知るともっと分かるようになる映画の話/第1回「ファイトクラブ」
こんにちは、ふみなるです。
theLetterの投稿第2回目です。
今回は「キリスト教に直接関係ない映画に潜むキリスト教要素」について書きます。
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さて本題です。
キリスト教が一般に認知されている国々(いわゆるキリスト教圏)の映画には、しばしば当然のようにキリスト教要素が含まれます。が、それらは「知っていて当然」なのでいちいち説明されません。それを非キリスト教圏の人が見ると、その要素に全く気づかなかったり、「これはどうしてだろう」と疑問に思ったりします。
それでは残念ですので、今回は一般の映画(キリスト教がメインテーマでない映画)で「これはキリスト教の知識があった方がもっと理解できるのでは」とわたしが思ったものをピックアップします。とりあえず以下の3本です。
どれもキリスト教とは直接関係ない映画ですが、それぞれキリスト教要素を含んでいます。特に最後の「テルマ」は、キリスト教的背景を知らないと「主人公はなんでそんなに悩むのだろう?」と不思議に思って物語の根幹部分を理解しないまま見終えてしまう恐れがあります。 今週から、3本を順番に取り上げていきます。今回は「ファイトクラブ」です。
※ストーリーの詳しい解説はしませんが、ネタバレに触れますのでご注意下さい。

本作のモチーフの一つである石鹸(映画「ファイトクラブ」)
「ファイトクラブ」におけるボーンアゲイン
「ファイトクラブ」の主人公(名前はありません)は不眠症に悩んでいます。医者に相談しても「不眠症じゃ死なない」と相手にされません。しかし半信半疑で参加したガン患者の自助グループで、彼は不思議に癒されます。
というのは黙って座っているだけで、自助グループのメンバーたちが「この人は重症で絶望しているのだ」と勝手に勘違いしてくれて、抱きしめて泣いてくれるからです。主人公は(おそらく死にゆくであろう)ガン患者たちの愛に包まれて(あるいは彼らの愛を吸い取って)、嘘のようにぐっすり眠れるようになりました。
以来、彼は病みつきになって、毎日のように様々なガン患者の自助グループに潜入します(彼は当事者でありませんので、本来なら参加資格がないのでは? と思いますが)。
自助グループでの体験を、彼はこうたとえます。
「毎晩僕は死んで、毎晩僕は生き返った。よみがえりだ」
これはイエス・キリストの十字架の死と復活を意識したものですが、原語では「ボーンアゲイン」という言葉を使っていますので、「新生体験」をより意識したものでしょう。
ヨハネによる福音書3章5節に「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」という言葉があります。プロテスタントの福音派はこれをもとに「新生体験(ボーンアゲイン)」という教義を組み立てていて、信仰に進めば(霊的な意味で)人は生まれ変わることができる、としています。具体的にどのように生まれ変わるかは、実のところ曖昧ですが。
このボーンアゲインは主人公にとって、ガン患者と抱き合って泣くことだったようです。「死」に瀕した彼らと交わることで、逆説的に自身の「生」を再発見したからかもしれません。

ガン患者の自助グループで抱き合うボブと主人公(映画「ファイトクラブ」)
その意味で、自助グループは彼の教会であり、メンバーは彼の信徒仲間でした。そして彼はキリスト教会が提供する「霊的」という曖昧なものでなく、よりリアルな、より強烈なボーンアゲインを体験しました。 別人格であるタイラー・ダーデンを生み出したのです。
本作では主人公をエドワード・ノートンが、タイラーをブラッド・ピットが演じていますが、2人は二重人格の同一人物で、実はタイラーの姿は主人公にしか見えません(主人公に名前がないのは、皆が彼をタイラーだと思っているけれど、主人公自身は自分とタイラーは当然のごとく別人だと思っているからです)。
というわけでキリスト教福音派は霊的な意味のボーンアゲインを提唱しますが、主人公はタイラー・ダーデンという別人格を生み出すことでボーンアゲインを果たしました。それが後々大変な事態を引き起こすとも知らずに。
ペンテコステ派の熱狂と恍惚
タイラーと共にファイトクラブを結成した主人公は、夜な夜なバーの地下に男たちを集め、一対一の殴り合いを始めます。
これは暴力と痛みの中で逆説的に自身の「生」を体験する行為です。ガン患者の自助グループにおける「互いに抱き合って泣き合う」行為の真逆に見えますが、実は本質的には同じです。むしろより強烈にアップデートしたバージョン、と言えるかもしれません。
この殴り合いを見つめるメンバーたちの熱狂と恍惚を、主人公はこう評します。
「ヒステリーな叫び声には恍惚感があった。ペンテコステ教会のように」
ペンテコステ派はキリスト教プロテスタントの一派ですが、日本ではあまり(少なくともカトリック教会のようには)知られていないでしょう。フルバンドによる賛美でみんなで踊ったり叫んだりする、一口に言えば「騒々しい」礼拝をするグループです。
わたしもペンテコステ派出身ですが、礼拝が最高潮に達した時はまさに「熱狂」と「恍惚」の渦だったと記憶しています。人気バンドのライブや、プロサッカーの試合会場を思い浮かべれば分かりやすいかもしれません(ただし日本のペンテコステ派は文字通り騒々しいところから、全く騒々しくないところまで、わりと幅があります)。

ファイト後のタイラー・ダーデン(映画「ファイトクラブ」)
ですので上記の「ペンテコステ教会のように」を聞いてわたしはすぐピンときましたが、そもそもペンテコステ派を知らない人には「なんのこっちゃ」な一言でしょう。
またペンテコステ派は信徒どうし熱く祈り合ったり、抱き合って泣いたりすることもありますから、ガン患者の自助グループに似た雰囲気があります。その意味でペンテコステ派は本作において、自助グループとファイトクラブを背後で繋ぐ役割を果たしています。
「ファイトクラブ」という教会
殴り合うことで「生」を実感する、一種の自助グループだったファイトクラブは、やがて危険なテロリスト集団(「スペースモンキーズ」)となります。
初めのうちは路上の車をパンクさせる程度でしたが、次第に店舗の爆破などエスカレートし、最後は大手金融ビル群の同時爆破に至ります。
タイラー(=主人公)が目指したのは、「消費社会に踊らされる人々の解放」でした。
そもそも主人公が不眠症になった原因は消費社会に縛られたストレスからでしたから、「ガン患者の自助グループ→ファイトクラブ→スペースモンキーズ」という活動の推移は全然バラバラでなく、むしろ一貫しています。自身と人々を解放するための(タイラーなりの)壮大な計画だったのです。その方法は全く肯定できませんけれど。
ビル群の同時爆破の場面でわたしが連想したのは、カルト化したキリスト教会でした。
キリスト教の目的は大雑把に言って「人間の救済」です。破滅ではありません。しかし「この汚れた罪深き世界から人々を救うためには破壊もやむなし。それを理解しない人間を排除するのは必要な犠牲だ」と信仰が先鋭化し、具体的な攻撃行動に移ってしまうことがあります。オウム真理教がその典型ですが、「世界宗教」と呼ばれるキリスト教もそこに陥る危険性があります(現に寺社に油を撒いて警察の捜査を受けた日本の教会もあります)。
タイラーを中心とするスペースモンキーズは、その意味でカルト化教会そのものです。

主人公に教えを説くタイラー・ダーデン(映画「ファイトクラブ」)
タイラーの言葉、「苦しみと犠牲が尊い」も「全てを失って真の自由を得る」も実際のキリスト教会でよく語られる言葉ですが、その破壊活動を肯定する理由としても使われてしまいます。
このようにガン患者の自助グループから始まった主人公の「解放」の道程は、キリスト教会の開拓、発展、カルト化の道筋とよく似ています。その意味で本作は、非常にキリスト教的と言えるのではないでしょうか。
終わりに
「ファイトクラブ」はただでさえ情報量の多い映画ですが、このようにキリスト教知識が前提となった描写もいくつか登場します。
1999年の公開当時は「マッチョ・ポルノ」と評され、興行的には振るいませんでした。しかしソフト化以降人気に火がつき、2008年にイギリスの映画誌「エンパイア」が企画したアンケート「過去最高の映画」において、500作品中10位に選ばれました。現在も様々なランキングで上位に位置し、言及されるカルト的映画(カルト化という意味ではありません)です。
ご覧になる際は、本記事の内容を思い出していただければ幸いです。

ラストシーン(映画「ファイトクラブ」)
今回は以上になります。次回は映画「セブン」のキリスト教要素を読み解いていきます。
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