宗教はどれも違うけれど、どれも同じ
こんにちは、ふみなるです。
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さて、初回となる今回は、「宗教はどれも違うけれど、どれも同じ」という一見矛盾したタイトルです。どういうことでしょうか。
宗教の違うところ
世界には様々な宗教があります。
それぞれ信じる神様が違い、その神様も単数だったり複数だったりします。宗教儀式も信仰生活もそれぞれです。
当然ですが、宗教はどれも違います。
例えばキリスト教とイスラム教と仏教は「世界宗教」と呼ばれ、今や世界中に信者が広がっていますが、キリスト教は西欧圏の、イスラム教はアラブ圏の、仏教はアジア圏のイメージが一般に強いでしょう。この3つは各地域の政治的、民族的、文化的な相違とも相まって、「互いに相容れない宗教」という印象が持たれていると思います。
特にキリスト教圏とイスラム教圏は、11世紀の十字軍の頃からずっと(形を変えて)争い続けていますから、相容れないイメージは根強いかもしれません。日本においてはキリスト教と仏教の確執も(表立った形でなくても)あるかもしれません。
ではそれぞれの宗教は、それほど決定的に「違う」のでしょうか。
わたし自身はキリスト教徒ですが、イスラム教徒と仏教徒の知人がそれぞれいます(ありがたいことです)。時々彼らの話を聞く機会がありますが、そこでいつも確認するのは、「宗教はどれも違うけれど、どれも同じなんだな」ということです。
もちろん教義はそれぞれ違います。キリスト教はイエス・キリストの教えを、イスラム教はムハンマドの教えを、仏教はゴータマ・シッダールタの教えをもとに(そこに後世の人々の解釈も加わえて)教義を組み立てています。
イスラム教の断食規定は独特ですし、仏教の「煩悩」という考え方も独特です。キリスト教は「讃美」という歌唱を礼拝に取り入れている点が独特と言えるかもしれません。宗教施設の建築様式もそれぞれ違いますし、信仰生活における禁止事項もそれぞれ特徴があります。
それぞれの信仰生活も全然違います。例えばイスラム教徒は豚肉を食べません。仏教徒の一部は肉全般を食べません。キリスト教徒の一部は禁酒喫煙です。「(神様への)祈り」の方法や形式、回数の規定もあったりなかったりします。
宗教の同じところ
しかし一方で、それぞれの信者が信仰生活の「現場」でぶつかる困りごとや悩みごとは、共通しています。
例えば「その解釈は間違っている」と同じ宗教内で互いに衝突することがあります。教派の違いによる教義解釈の違いが原因ですが、互いに自分が信じているものが一番ですから、なかなか譲れません。下手すると不毛な泥試合を延々と続ける羽目になります。
また「強く信仰すれば問題が解決する」とか、「苦しいのは信仰が足りないからだ」とかの、半ば根性論めいた言説に悩まされることもあります。もっと努力しなさい、もっと頑張りなさい、と言われ続けるのはなかなかしんどいことです。
さらにえげつない例を挙げれば、聖職者による信者への暴力(性暴力を含む)などもあります。これはまったく笑えない話ですが、現に多くの聖職者たちが告発されてきました。
残念ながら、こういったケースはどの宗教にも共通しています。
違う宗教、違う信仰生活でも、それぞれ「現場」で体験するもの、起こるものは同じなのです。
わたし個人も、イスラム教の知人や仏教の知人の愚痴を聞いて、「キリスト教と全く同じだな」と思うことがよくあります。驚くほど似通っています。
その意味では、どの宗教も「現場」は同じです。
どうしてこういう問題が起こるかというと、宗教組織が「人の集まり」だからです。人間が集まるところではどこででも、人間に由来する問題が起こります。宗教組織も例外ではありません。
権力構造、暗黙的な階級制度、不平等、喧嘩、暴力、金銭面の不正……。それらはどの宗教組織でも起こり得ます(全ての宗教組織で起こっている、という意味ではありません)。「宗教をやっているのだからみんな聖人なのだろう」という考えは幻想でしかありません。人間はどこまで行っても人間ですから(そういった人間性からの解放は宗教の目指すところではありますが、現実はそう簡単ではありません)。
というわけで、宗教はそれぞれ違うものだけれど、その現場で起こっていることはどれも同じです。さあ、これで本記事のタイトルに繋がりました。
宗教の分かれ目はたぶん偶然
では、なぜ人はそれぞれ違う宗教を信じるのでしょうか。現場レベルが同じなら、どの宗教を信じたっていいじゃないか、という話にならないでしょうか。
そこには偶然の要素が大きく絡んでいる、というのがわたしの見方です。
例えば、日本で一般的な暮らしをしている人がいきなり「よし、キリスト教を信じよう」と思い立つことはほぼありません。みんな何らかのきっかけがあって、各宗教にアクセスします。
例えば友達に誘われて行った先がキリスト教会だったとか、生まれた家が僧侶の家庭だったとか、結婚相手がイスラム教徒だったとか、尊敬する人が○○教徒だったとか、駅前で勧誘されたとか、そういう偶然の要素で人は宗教に出会います。
わたしは友人に誘われてキリスト教プロテスタントの教会の門を叩いた口ですが、もしあれがイスラム教のモスクだったら、今頃イスラム教徒だったかもしれません(キリスト教とイスラム教は教義的に似たところがありますから、その可能性は低くないでしょう)。
その意味では無神論の方も、初めから「自分は無神論で生きる」と断固とした決意を持っているわけでなく、たまたま宗教との出会いがなかっただけかもしれません。
いずれにせよ、「宗教との出会い」は人それぞれです。どれが良いか悪いかではありません。宗教自体の優劣もありません。そしてどの宗教においても、現場レベルで体験することはほぼ同じです。
というわけで、宗教はどれも違うけれど、どれも同じ、という話でした。
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