当事者にとって「ハッピーエンド」とは/「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

「吃音」を説明しない吃音の映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」から、障害当事者にとっての「ハッピーエンド」について考えます。約2200字。
ふみなる 2021.07.04
誰でも

 皆さんこんにちは、ふみなるです。今回取り上げるのは「吃音」を説明しない吃音の映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」です。どうぞ最後までお付き合い下さい。

「吃音」が出てこない吃音の映画

 「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」(湯浅弘章監督/2017年)は吃音症を取り上げた珍しい映画ですが、作中に「吃音症」や「どもり」といった表現は一切出てきません。それは漫画原作者である押見修造の意図によるものです。

この漫画では、本編の中では「吃音」とか「どもり」という言葉を使いませんでした。それは、ただの「吃音漫画」にしたくなかったからです。とても個人的でありながら、誰にでも当てはまる物語になればいいな、と思って描きました。
押見修造 (漫画 「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」〈太田出版〉あとがきより)

 しかし吃音当事者の一人として、「吃音症」という言葉をぜひ使ってほしかったな、とわたしは思います。具体的にどんな症状があってどんな困りごとがあるのか、広く知ってもらう良いチャンスだからです。「誰にでも当てはまる物語」になるのはそれはそれで良いことですが、吃音症による苦悩は(本作で言えば志乃の苦悩は)誰にでも当てはまるものでなく、当事者特有のものです。それを「誰にでも当てはまる」とすることで、「吃音者も大変だけど、みんなも大変だよね」と当事者性を排除してしまうことになるのではないか、とわたしは危惧しました(とは言っても、本作は吃音者が日常的にぶち当たる問題を非常に、痛々しいほとリアルに描いています)。

高校の初日、自己紹介で自分の名前が言えない志乃(映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えないより)

高校の初日、自己紹介で自分の名前が言えない志乃(映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えないより)

 ただ押見修造自身も吃音当事者ですから、障害への向き合い方は当事者ごとに違うのだ、と改めて思わされます。抗議の声を上げる障害者に対して「そんなふうに抗議しないでくれ」とたしなめる障害者もいます。同じ障害の中にあるグラデーションです。

当事者にとって「ハッピーエンド」とは

 先日友人と「足立レインボー映画祭」に行き、「カランコエの花」(中川駿監督/2018年)と「チョコレートドーナツ」(トラビス・ファイン監督/2012年)の二本を鑑賞しました。どちらも強烈な印象を残す映画でしたが(そのうちtheLetterで取り上げたいと思います)、その席で友人が「ハッピーエンドで終わるLGBTの映画が見たい」というようなことを話していました。LGBTを主題にした映画はハッピーエンドのものが少ない(ない?)のだそうです。なるほど、と思いました。

 では「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」はどうでしょう。文化祭のライブにデュエットで参加するはずだった志乃と加代ですが、ある出来事がきっかけで志乃は一方的に脱退し、学校にも行かなくなります。文化祭当日、加代は一人で舞台に立ち、ギターで弾き語ります。彼女は音程を取ることができず、もともと演奏専門だったのですが、志乃がいないので歌わざるを得なかったのです。そんな加代の、音程を大きく外しながら歌う姿を密かに見ていた志乃は、演奏後、みんなの前でどもりながら自分の気持ちを叫びます。加代を見て、「ありのままの自分を出そう」と思ったのかもしれません。

 これは「吃音者が自分の症状を受け入れて症状を隠さなくなった」という点でハッピーエンドと言えるかもしれません。しかしわたしは初見時、全くハッピーだと思いませんでした。志乃の気持ちの変化(変化と言えるかどうかも微妙ですが)以外、何一つ変わっていないからです。むしろ大変なのはこれからなんじゃないの……? と思いました。

バンドを結成した志乃と加代(映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」より)

バンドを結成した志乃と加代(映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」より)

 そう考えつつ前述の友人の話を考えてみますと、「当事者にとって何がハッピーエンドなのか」はなかなかの難題です。吃音者で言えば、周囲が吃音を理解してサポーティブになってくれることなのか、あるいは本人が全く気にせずどもりながら日常生活を送るようになることなのか、それとも吃音がすっかり治ってしまうことなのか……(極論ではありますが、死んでしまうことを「ハッピー」と考える人もいるかもしれません)。「ハッピー」の意味にも、当事者ごとのグラデーションがありそうです。

モーセの努力? みんなの努力?

 聖書の中の吃音と言えば、旧約聖書のモーセが思い出されます。紅海を分けてイスラエルの民を導いたとされる人物です。彼は神から召命を受ける際、「(自分は)言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」(出エジプト記4章10節)と告白しています。はっきり断定できませんが、モーセは吃音症だったかもしれません。

 それに対して神はモーセの兄アロンを立てます。モーセが神から啓示される人、アロンがそれを喋る人、という役割分担にしたわけです。吃音者的には(あるいはわたし的には)誰かが自分の代わりに喋ってくれたらいいなあと思うので羨ましい役割分担ですが、ここで興味深いのは「神は吃音を癒さなかった」という点です。他では重病人を癒したり、死人を生き返らせたりしているのに、です。理由は分かりませんけれど。

 かつて教会で、わたしに対して「モーセも吃音だったんだよ」と(たぶん励ます意図で)言う人がいましたが、わたし個人は全然励まされませんでした。モーセはモーセ、わたしはわたしだからです。モーセが頑張って乗り越えたとしても、それでわたしが自動的に乗り越えられるわけではありません。

紅海を分けたモーセ(映画「十戒」より)

紅海を分けたモーセ(映画「十戒」より)

 またそれは吃音に関わる様々な問題を、個人の努力に帰してしまうことです。なんとかして喋りなさい、無理なら意思を伝える他の術を見つけなさい、とにかく自分で努力しなさい、あのモーセのように、みたいな。しかしそれは車椅子ユーザーに対して「自分たちでスロープを作りなさい」とか「駅を利用できるように自分たちで工夫しなさい」とか言うようなものです。どこまでも自己責任なのでしょうか、と思ってしまいます(もちろん自分にできる範囲の努力は、障害者はみんなずっとしていると思います)。

 吃音に限らず障害は、当事者だけの問題でなく、障害のない人の問題でもあります。障害のある人たちが生きやすい社会は、障害のない人たちにとっても生きやすいはずだからです。その意味で、冒頭で挙げた押尾修造の「誰にでも当てはまる(吃音の)物語」というコンセプトは、一周回って的確なのかもしれません。

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 今回は以上になります。最後までお読み下さり、ありがとうございました。また来週日曜日にお届けします。(ふみなる)

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