男性の問題を押し付けられる女性たち/映画「サスペリア」

映画「サスペリア」のマルコス舞踊団が目指すのは、「女性だけの街」なのか。そこに見出される女性差別との戦い。約2600字。
ふみなる 2021.05.23
誰でも

 今回は映画「サスペリア」から女性差別について考えます。ホラー面には触れませんご安心(?)下さい。どうぞ最後までお付き合い下さい。

 theLetterにメールアドレスをご登録いただくと、最新記事がメール配信されます。どうぞこの機会にご登録下さい。無料です。↓

女性の自立

 「サスペリア」は1977年のダリオ・アルジェント監督の名作ホラーです。2018年にルカ・グァダニーノ監督がリメイクして再び話題を集めました。

 物語の舞台はどちらもベルリンのマルコス舞踊団。ネタバレするとそこの指導陣は全員「魔女」で、何も知らずに入団してくる若いダンサーらを餌食にしている、というオチです。1977年版がスプラッター寄りなのに対して、2018年版はより呪術的かつスタイリッシュになっています(よりショッキングなのは後者です。視聴の際はご注意下さい)。

 マルコス舞踊団は女性だけのコミュニティです。指導陣もダンサーも全員女性。皆で共同生活を送っており、ダンサーらに生活費の負担はありません(かつ少額ながら給料が支払われるようです)。指導者の一人、ミス・タナーによると「女性の経済的自立は重要」とのこと。女性の女性による女性のためのコミュニティ、というコンセプトです(主に2018年版の設定から)。

女性だけの共同生活が営まれるマルコス舞踊団(映画「サスペリア」2018年版)

女性だけの共同生活が営まれるマルコス舞踊団(映画「サスペリア」2018年版)

 本作に男性はほとんど登場しません。登場する男性(精神分析医と刑事たち)はどちらも舞踊団の「魔女」たちにあっけなく手玉に取られます。「第二次大戦下もマダム・ブランが舞踊団を守ってきた」と語られる通り、「女性の自立」が本作のテーマの一つとなっています。

「女性だけの街」

 わたしが本作を見て連想したのは「女性だけの街」です。奇しくもリメイク版が公開された2018年に、ツイッターで「女性だけの街」が話題になりました。

 「女性だけの街」というのは、「痴漢やセクハラや女性差別のない女性だけの街に移住したいなあ……」という旨の愚痴ツイートで登場した言葉です(元ツイートは既に削除されていますので正確な表現は分かりません)。そのツイートがバズり、一連の騒動に発展しました。主に男性からと思われる反論や嫌がらせのリプライが、大量に付いたのです。「インフラ整備やごみ収集に男性が必要だろ」とか「男なしでどうやって子孫を残すんだ」とか「それは男性差別だ」とか。この炎上によって、逆に苛烈な女性差別が可視化される事態となりました。

 ここまで曲解するのか、と驚いたものです。恥ずかしながら、わたしが女性差別の存在をはっきり認識した出来事でもありました。

「女性だけの街」のまとめはこちらから。↓

 元ツイートは本当に「女性だけの街」を建設してそこに移住したい、という意味ではないでしょう。男性の加害から逃れたい、という女性の疲れきった嘆きです。その切実な気持ちをまた男性が非難する、という二重加害が起こってしまいました。女性差別はどこまで根深いのでしょうか。

 日本でおそらくもっとも身近に実現した「女性だけの街」は、電車の女性専用車両ではないでしょうか。朝の通勤時間帯の「女性の安全確保」のために設けられた車両です。大阪メトロは女性専用車両の導入理由を「女性を痴漢被害から守るため」と明記していて、どれだけ被害が多いか物語っています。しかしそれに対しても、(やはり主に男性からと思われる)「女性だけ優遇している」とか「男性差別だ」とかの批判がしばしば起こります。加害者側が被害者ヅラする構図です。

 もっとも女性専用車両の導入は、問題を根本的に解決するものでなく、逆に解決不可能だと(男性の性欲・加害欲は制御不可能だと)認めるようなものです。そして女性を根本的に守るものでなく、逆にその行動を制限するものです。2017年にイギリスで、電車内の性犯罪が増加したことを受けて労働党が女性専用車両の復活を提案しましたが、同様の批判を浴びて撤回しました。その際に「性犯罪は本能・衝動によって起こるものではない。社会的権力によって起こるものだ」との本質的な指摘がなされています。

 その意味で日本の女性専用車両は(あるいは「女性だけの街」は)、根本的な解決を諦めてしまった姿の象徴かもしれません。「サスペリア」の女性だけのマルコス舞踊団は詰まるところ、一度中に入った女性を呪術的に軟禁し、出られなくする装置です。それは女性を閉じ込めて隔離することでは女性差別は解決しない、と逆説的に語っているようにも見えます。

ダンサーは二度と出られない(映画「サスペリア」2018年版)

ダンサーは二度と出られない(映画「サスペリア」2018年版)

男性の問題を押し付けられる女性たち

 キリスト教会でも似たような構図の女性差別が起こり続けています。昔、ある男性牧師がこんな話をしていました。

 「僕は神学生の頃、夏にノースリーブを着て出歩く同級生の女子に、『誘惑になるから露出の多い服装はやめてほしい』とはっきり伝えました。すると彼女は最初こそ渋っていましたが、最後は理解してくれました。そしてそういう服装を避けるようになってくれました。言うのは恥ずかしかったですし勇気が要りましたが、言ってよかったです。信仰の勝利でした。ハレルヤ!」
某牧師

 それを聞いた信徒らは拍手喝采。牧師先生はやっぱり素晴らしい、篤い信仰の持ち主だ、と褒め称えていました。わたしも当時は「そうか、そうやって誘惑を避ければいいのか」と単純に考えてしまったものです。

 しかしこれは今思うと、女性を女性専用車両に(あるいは「女性だけの街」に)閉じ込めて排除することと同じです。男性の利益のために女性の服装を制限し、不自由にさせるのですから。もちろん教会ごとのドレスコードには沿うべきでしょうけれど、それは別問題です。男性の利便性のために、(服装に限らず)女性を犠牲にすべきでありません。

「露出の多い服装は女性の性被害に繋がるからやっぱり避けさせるべきだ」という意見もありますが、露出度と性被害は相関しません。前述の通り、性犯罪は本能・衝動によるものでなく、権力によるものだからです。簡単に言えば「できるからやる」ものであり、「抵抗されない/発覚しない/自分に害がない/からやる」ものです。

 クリスチャン男性の「誘惑に陥りたくないから女性に服装を気をつけてもらう」という主張は、信仰でも何でもなく、男性の問題を女性に押し付ける行為です。それは本来女性の問題でなく、男性の問題です(エデンの園で禁断の木の実を食べてしまったアダムがその責任をエバに押し付けたのと似ています)。前述の話に出てくる同級生の女子が渋ったのは、そこが引っ掛かったからではないでしょうか。

小ネタ

 2018年版で「魔女」のマダム・ブランを演じたティルダ・スウィントンは、本作で一人三役を演じています(わたしは全然気づきませんでした)。精神科医のジョセフ・クレンペラー(年配男性)と、「魔女」の首領ヘレナ・マルコス(異形の怪物のような姿)です。特殊メイクに何時間もかけて撮影に臨んだとのこと。

男性役も演じたティルダ・スウィントン(映画「サスペリア」2018年版)

男性役も演じたティルダ・スウィントン(映画「サスペリア」2018年版)

 この演じ分けにはフロイトの精神分析で言うところの「イド(欲求)」と「エゴ(自我)」と「スーパーエゴ(超自我)」をそれぞれ現す意図があったそうです。それによるならダンサーらを平気で犠牲にするヘレナ・マルコスがイド、舞踊団の調査をしつつ翻弄されるジョセフ・クレンペラーがエゴ、「魔女」でありながら良心的なマダム・ブランがスーパーエゴではないかな、とわたしは見ました。

 他にも本作には、冒頭にユングの著書「転移の心理学」がチラッと登場します。精神分析的な視点で読み解くのも面白いかもしれません。

***

 今回は以上です。最後までお読み下さり、ありがとうございました。(ふみなる)

※投げ銭のご用意のある方はこちらからしていただけます。↓

無料で「ふみなるのニュースレター」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
「事実」は人の数だけある?
誰でも
地獄はどこにあるのか
誰でも
魔女に襲われる話でなく、魔女を作り出す話
誰でも
性善説vs性悪説
誰でも
運命と自由意志の両立
誰でも
最後のエバ
誰でも
神も悪魔も人間以下?
誰でも
アライと表明すべきか問題