「ある少年の告白」が描く宗教2世たちのサバイバル
皆さんこんにちは、ふみなるです。theLetterの8回目の記事です。いつも読んで下さってありがとうございます。
「ある少年の告白」(原題:Boy Erased)は2018年のアメリカ映画です。監督はジョエル・エドガートン。原作者ガラルド・コンリーの実体験に基づく「同性愛矯正治療」の現場をリアルに描いたものです。ガラルドはバプテスト派の牧師の息子で、矯正施設もキリスト教信仰に乗っ取ったものですから、これはキリスト教の現場で起きていることの一つと言えます。
本作でわたしが特に注目したのは、主人公とともに矯正施設で「治療」に取り組む少年、ゲイリーとジョンです。この2人は対称的なキャラクターで、「救済プログラム」に真逆の姿勢で臨みます。そこには多分「宗教2世」としての彼らの生き方が反映されています(その意味で、本作は宗教2世に課せられた葛藤をこれでもかと見せつける映画でもあります)。
諦観のゲイリー
ゲイリーは飄々とした雰囲気の、なんでも卒なくこなすタイプです。「治療」にも上手く順応し、効果を上げているように見えます。矯正プログラムの中で「自分の過去の罪を言い表し、『治療』でどのように変えられたか」告白する時間がありますが、彼は切実な口調でこう語ります。
「僕は騙されていた。罪深い人々に惑わされた。悪魔に魅入られ、イエスを拒んだ。でも今は、自分の罪(同性愛指向とその行為)に目覚め、悔い改めた。そして今ここに(来ている)。過去の(同性愛指向の)自分には心底ウンザリする。神に赦しを求めたい。みんなに感謝する。特にサイクス(施設のリーダー)さん。正しい道に戻してくれた。」
見事に「治療」が功を奏し、ゲイリーは同性愛指向から異性愛指向に「治った」ようです。指導者のサイクスは満足そうに頷いて、「みんな君が好きだ」とゲイリーに語りかけます。
しかし後半で明らかになりますが、ゲイリーは「役を演じている」だけでした。「矯正治療」のおかげで「正しい道に戻れた少年」の役、矯正施設のスタッフたちが喜ぶ「模範的な参加者」の役柄を。実のところ、彼はとにかく「治った」ように見せかけて、少しでも早く施設から抜け出したかったのです。
そういう視点で上記の告白を見てみますと、いかにも内容のない、薄っぺらいものだと気づきます。それらしい言葉を並べて繋げた、聞く者を満足させようという意図のみで書かれた作文です。プロテスタントの福音派やペンテコステ派は信徒に証(あかし)をさせることがよくありますが、そこで並べられるありきたりな美辞麗句をわたしは思い出しました(全ての「証」がそうだとは言いません)。
ゲイリーは矯正施設の欺瞞を早々に見抜いていたのです(初めからだったかもしれません)。しかし両親や教会の牧師らにそのことを訴えても無駄だと分かっていました。ですから諦めて、自分に今できること(役割を演じること)に集中したのです。わたしには彼が、アダルト・チルドレンの予備軍のようにも見えました。
役を演じるよう主人公に助言するゲイリー(映画「ある少年の告白」)
盲信のジョン
一方のジョンはプログラム2回目の参加者です。顔に殴られたようなアザがあります。握手の代わりに敬礼をします(誰とも触れ合わないようにするため。また軍隊式=「男らしさ」を意図したもの)。ジョンはゲイリーと違って、積極的に「矯正治療」に取り組んでいます。なんとしても「治したい」という執念さえ感じます。
ジョンは劇中、「自分は大丈夫だ」と何度か言います。「矯正治療」は上手く行っている、と。しかし本当に大丈夫なら、プログラムに2回も参加しないでしょう。握手を拒むほど他者(特に男性)との接れ合いを避けないでしょう。そこまで「男らしさ」にこだわる必要もないでしょう。そして(これはわたしの想像ですが)自分で自分を殴って、罰する必要もないでしょう。
ジョンはちっとも大丈夫でないのです。
そんな彼の本音が表れる瞬間があります。キャメロンという少年の「再洗礼式」(これはこれで悲惨なエピソードです)で、いたたまれなくなってその場を離れる主人公の腕を、ジョンがとっさに掴んでしまうのです。他者との物理的な触れ合いを徹底的に避けてきたジョンですが、その手はやはり他者を求めていました。自分が実は大丈夫でないことに、ジョンはそのとき気づいたかもしれません(残念ながら、ゲイリーとジョンのその後は映画では語られません)。
ジョンにとって同性愛指向は「罪」であり、「間違い」であり、なんとしても「矯正すべきもの」でした。おそらく教会や家庭でそう強く教えられてきたのです(でなければ矯正施設には来ません)。自分でもそう信じきっていますから、自分で自分を否定するしかないのです。彼が終始自虐的なのはそのせいかもしれません。ジョンはきっと真面目で素直な性格だと思いますが、盲信に陥っているようにわたしには見えました。
自分は大丈夫だと語るジョン(映画「ある少年の告白」)
宗教2世たちのサバイバル
わたしが知っている宗教2世、特にプロテスタントの牧師家庭の子には、ゲイリーやジョンのような子が少なくありません。教会の大人たち(親を含む)の喜びそうな受け答えをわきまえた(わきまえさせられた)、いろいろなことを諦めてしまったゲイリーがいます。教会の(時に)理不尽な教えにも忠実に従い、これが「祝福の道」であり「正しい道」だと信じて疑わないジョンがいます。
宗教2世の子たちは多くの場合、親の宗教に自分なりに向き合わねばなりません。親の教育方針にもよりますが、同じ宗教を信仰するよう親に要求されたり、暗に期待されたりするからです(あからさまに押し付けられることもあります)。もし拒否感があっても、子どもが親にNOを突きつけるのは簡単ではありません。なんとか上手くその宗教と折り合いを付ける方向で頑張ることになります。その意味で、サバイバル的な側面があります(上手く行っているように見える子も、その心の中は分かりません)。
そして厳格なクリスチャン家庭に生まれた同性愛指向の子であれば、それは文字通りサバイバルとなります(映画「テルマ」がまさにそうでした)。ただでさえ一般社会でまだまだ差別や偏見に晒される恐れがあるのに、そういう教会では同性愛指向は「罪」とされ、「悔い改め」させられ、「治す」以外の道を絶たれてしまいます。その結果ゲイリーやジョンのような反応になることを、誰に責められるでしょうか。彼らは自分のサバイバルに必死なのです(妄信型のジョンにはその自覚がなかったかもしれませんが)。
「矯正」と称する虐待が行われる施設 "Love in Action"(映画「ある少年の告白」)
負の再生産
そしてさらに悲劇的なことに、このサバイバルの結果は多くの場合、二つに一つです。
①親や教会に反発して信仰を捨てるか、②順応して積極的に信仰に生きるか、です。後者の何が悲劇なんだと思われるかもしれませんが、これはかつて被害者だった子どもが、大人になって加害者の側に回る、ということです。新たな抑圧と被害を生む、負の再生産です。
実はこの再生産は劇中すでに起こっています。矯正施設のスタッフたちも「かつて同じ問題を抱えていた」と語られるのがそれです。特にリーダーのサイクスは、後に施設を離れ、同性婚をしたと語られます。
つまりかつて何らかの「矯正治療」を受けた子たちが大人になって、同じような子たちに「矯正治療」を施し、「救った」気になっている、という図です。彼らの言う「救済プログラム」は、実は子どもたちの「救済」でなく、自分たちの「救済」のためだったかもしれません。
主人公を「矯正」するサイクスもかつて「矯正」された子だった(映画「ある少年の告白」)
「信仰」とか「愛」とかでコーティングされたキリスト教版差別
この矯正施設(Love in Actionという皮肉な名前です)で行われた明らかな人権侵害は、後に主人公ジャレッドによって記事化され、反響を呼びます(原作はガラルド・コンリーの実体験に基づいており、同様に反響を呼びました)。
しかしアメリカでは、アメリカ精神医学会が1973年に「精神疾患の診断・統計の手引き(DSM)」から同性愛の項目を削除して、もはや「治療すべき病気」でなくなったにもかかわらず、現在も36州で同性愛矯正施設が認可されており、およそ10万人が「治療」を受けています。まだまだ問題は解決されていません。
では問題は矯正施設の存在かというと、それだけではないとわたしは思います。主人公ジャレッドを矯正施設へ送るよう「助言」した教会の牧師、長老、そしてその「助言」を聞き入れた親の方にも問題があるからです。みな「善良な」人たちですが、「同性愛は正常ではない」「治さなければならない」という思い込みや、無意識的なホモフォビアに縛られています。
矯正施設に問題があり、糾弾されるべきなのは間違いありませんが、ではそういった「善良な」牧師や長老や親はどうなのでしょうか。彼らは同性愛指向をカミングアウトした子に一方的に「罪」を負わせ、「お前が変われば問題ない」と言って聞かせ、「救済プログラム」に送り込みます。問題なのはジャレッドやゲイリーやジョンでなく、彼らの方ではないでしょうか。
主人公のカミングアウトにショックを隠せない両親(映画「ある少年の告白」)
「救済プログラム」に同性愛指向の子どもたちを送り込むのは、子どもたちに苦しみを負わせて、自分たちの「こんなはずではない」とか「この子は異性愛者でなければならない」とかいう苦しみを解消するためではないでしょうか。その意味で、自分たちのための「救済」なのです。しかしそれは「信仰」とか「愛」とかでコーティングした、キリスト教版差別に他なりません。
これは遠いアメリカの話でなく、日本でも一部で、小規模ながら行われているようです。また「矯正」まで行かなくても、「同性愛は罪だ」と断罪して当事者を追い詰めるクリスチャンは今も少なくありません。日本のキリスト教会はこれに対して積極的に声を上げ、差別と虐待と加害に反対していくべきでないでしょうか。
終わりに
今回は以上です。次回は新海誠監督のアニメ映画「天気の子」について書く予定です。どうぞお楽しみに。
今週も皆さんによって、良い一週間となりますように。(ふみなる)
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