加害者にさせられた被害者/「キャリー」

スティーブン・キングのデビュー作「キャリー」と日本の幽霊の共通点は。そしてキャリーを追い詰めた宗教的抑圧とは。約2000字。
ふみなる 2021.06.13
誰でも

加害者にさせられた被害者

 「キャリー」はホラーの巨匠スティーブン・キングの1974年のデビュー小説です。終盤の自制心を失ったキャリーがテレキネシス(念力)で同級生や教師らを惨殺して回るシーンはまさにホラーですが、そこに至る過程は青春ものであり学園ものであり、「ホラー×青春」というキングのスタイルが最初から確立していたことが分かります。本作はこれまで2度映画化され(1976年ブライアン・デ・パルマ監督/2013年キンバリー・ピアース監督)、どちらも話題になりました。

 プロムのクイーンに選ばれたキャリーは壇上で豚の血を浴びせられます。いじめられ、除け者にされてきたキャリーが天国に引き上げられ、一瞬で地獄に突き落とされた瞬間です。キャリーはそれまでの鬱憤を晴らすかのように、テレキネシスで目に映る人々を殺しはじめます。長い髪にドレス姿のキャリーが血まみれで迫ってくる姿に、日本の方は「リング」の貞子や、番長皿屋敷のお菊、四谷怪談のお岩さんなどを連想するかもしれません。

 ところで日本の「お化け」と言えば、「白い着物/長い髪/女性」がほとんどステレオタイプではないでしょうか(「リング」の貞子はそれを忠実に踏襲し、再生産しています)。あるいは長い髪を振り乱す落武者のケースもありますが、いずれにせよ、主人に裏切られるなどして強い恨みを抱いたまま死んでいった弱い立場の人々が「化けて出る」、というのが共通点です。男性の権力者が「化けて出る」ケースは滅多にありませんが、それら彼らが「散々酷い目にあった挙句に理不尽に殺される」といった経験をしにくいからでしょう。被害者は多くが女性であり、だから「化けて出る」のも大半が女性なのです(日本の怪談にはそういう男女格差・権力格差が如実に現れています)。

 わたしが思うに、ホラーや怪談で本当に怖いのは、キャリーや貞子やお菊やお岩さんたちの怨念に満ちたおどろおどろしい姿でなく、彼女らをそこまで追い詰めた人々の身勝手さや悪意の方です。結果的に彼女らは加害者になりましたが、正確には「加害者にさせられた」のであって、もっと大きな加害者群がその背後に存在するわけです(ホラー映画の見方としてはつまらないかもしれませんが)。

学校でいじめられて居場所のないキャリー(映画「キャリー」2013年版より)

学校でいじめられて居場所のないキャリー(映画「キャリー」2013年版より)

 数多あるゾンビ・アポカリプスは、際限なく増殖するゾンビに追い詰められる少数の人間たちの恐怖を基本的に描いていますが、多くの作品が最終的に行き着くのは「一番怖いのは生きている人間」という点です。AMCの人気ゾンビ・ドラマ「ウォーキング・デッド」は最終的に人間どうしの争いになりますし、そのためにゾンビを軍隊として利用したり、ゾンビの群れに紛れて行動したりする「ゾンビより恐ろしい人々」が登場します。その点でゾンビは人間の暴力や狂気を増幅させる装置として機能しています。

 何であれ「化け物」は見た目に恐ろしいですが、本当に恐ろしいのは「化け物」を作り出す側の人間たち、弱者を平気で踏みつける強者たちの暴力性ではないでしょうか。その意味で「キャリー」は「恐怖のテレキネシス少女の殺戮物語」でなく、「抑圧され続けた少女がついに自身を解放した物語」と言えるでしょう。

宗教的抑圧への警鐘

 「キャリー」は抑圧された宗教2世の物語でもあります。というのは母親がキリスト教原理主義的信仰を持っており、その行き過ぎた信仰ゆえにキャリーを虐げ続けてきたからです。例えば母親のマーガレットはセクシャリティに関する全てを「けがれている」と断罪するがゆえ、娘に生理について何も教えませんでした。結果、高校生になって初潮を迎えたキャリーは、学校のシャワールームでの突然の出血に、何が起きたか分からず恐怖に怯えます(それが小説の冒頭のシーンになります)。

 またマーガレットは、キャリーの自然な身体的成長をも「けがらわしい枕」と表現して断罪します。キャリーは「女性でいてはいけないのか」と葛藤したことでしょう。彼女は自分自身の「女性らしさ」を否定し、あえて地味な、冴えない格好をします(それが同級生たちからのいじめをさらにエスカレートさせることになります)。

キャリーに祈りを強要する母マーガレット(映画「キャリー」2013年版)

キャリーに祈りを強要する母マーガレット(映画「キャリー」2013年版)

 これは宗教2世の子たちの、信仰熱心な親の期待に応えるために自分の「こうしたい」を諦める姿に似ています。キリスト教の保守的な教会や家庭には、例えば漫画やテレビアニメといった娯楽作品を「悪魔のもの」と否定し禁止するところがあります。同級生たちが話題にしているあれこれに全く触れることができない、そのストレスはいかほどでしょうか。

 そういった宗教的抑圧が、終盤のキャリーの暴走のトリガーの一つとなっています。あの暴走は宗教2世が解放を願う、悲痛な叫びでもあったとわたしは思います。

 いわゆる「宗教2世問題」は最近テレビでも取り上げられ、関連の書籍も複数出版されて注目を集めつつあります(抑圧された2世の子たちが大人になってついに声を上げた、という印象があります)。この動きは今後増えていくことでしょう(そうあるべきです)。スティーブン・キングの作品には、キリスト教に限らず抑圧的な宗教団体やカリスマ教祖がしばしば登場しますが、総じて悪いもの、迷惑なもの、害悪として描かれます。それはキングがかなり早くから、宗教的抑圧の危険性を認識していたからかもしれません。

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 今回は以上です。最後までお読み下さりありがとうございました。また来週お届けします。どうぞ良い一週間をお過ごし下さい。(ふみなる)

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