「女性優位社会」が映し出す男性優位社会/小説「パワー」

男女のパワーバランスが逆転した世界を描くSF小説「パワー」(ナオミ・オルダーマン著・2016年)が浮き彫りにするものとは(約2300字)。
ふみなる 2021.05.30
誰でも

 今回はナオミ・オルダーマンの2016年の小説「パワー」(日本では2018年に刊行)を取り上げて、「男女のパワーバランスが逆転した世界」について考えていきます。その世界は何を描き出し、何を暗喩しているのでしょうか。どうぞ最後までお付き合い下さい。

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「女性優位社会」が映し出す男性優位社会

 ナオミ・オルダーマンの「パワー」(2016年)は、男女の力関係が逆転した世界を描くSF小説です。女性の鎖骨下に「スケイン」と呼ばれる発電器官が出現したことで、女性は物理的に男性を圧倒するようになり、結果的に世界の構造をひっくり返していきます。本書は「スケイン」出現以前の「男性が支配する世界」から、「スケイン」が徐々に出現しはじめる過渡期、そして「スケイン」出現後の「女性が支配する世界」になるまでの経緯を複数視点で描いており、その構造が逆転していく様は、女性にとってはフェミニズム小説、男性にとってはホラー小説かもしれません(特に終盤の展開に男性は恐怖することでしょう)。本書はオバマ元大統領の2017年の推薦本にも選ばれ、話題になりました。

 この現実世界に男尊女卑と女性蔑視がはびこる根本的な理由は、「男性の物理的な力の強さ」にあると考えられます。ではそれが逆転したらどうなるのか? 女性の方が物理的に強くなったら世界はどうなるのか? と作者のナオミ・オルダーマンは考えたのでしょう。そのまま女尊男卑と男性蔑視の世界に逆転するのか? あるいはもっと「良い」世界になるのか? そういう思考実験が、彼女の意図の一つだったのは明らかです。

 本書が歴史小説の体裁を取っているのも一つのポイントです。これが書かれたのはどうやら遥か未来のことで、この物語について意見を交わすナオミという有名作家と、ニールという「男性作家」の往復書簡が冒頭と結末に配置され、メタ的に本編をサンドイッチしています。この二人の往復書簡は礼儀正しく互いに相手を敬う体裁を取っていますが、女性のナオミの方が圧倒的優位なのが端々から伝わってきます。「男性作家」のニールは科学的根拠を挙げて丁寧に「以前は男性が支配する世界だった」と説明を試みますが、ナオミは「それは単にあなたの空想だ」と全く受け付けません。現在の差別構造の存在を順序正しく説明する女性に対して、男性が「差別などない」と全く受け付けないように。

 「おっしゃっていた『男性が支配する世界』の物語はきっと面白いだろうと期待しています。きっといまの世界よりずっと穏やかで、思いやりがあって……」
(作中のナオミ・オルダーマンの書簡より)

 またこの往復書簡から、本書を実際に書いたのがニールだと判明します。それが結果的にナオミ・オルダーマン名義で出版された、という設定です。弱い立場にある男性の功績を強い立場にある女性が横取りした構図ですが、ここにナオミ・オルダーマンの最大の皮肉が込められているようにわたしは思いました。現実の世界では逆のことが起こっていませんか、と。

 つまり本書はあえて「女性優位社会」を描き出すことで、現実の男性優位社会を浮き彫りにしているわけです。

「キリスト教」から「マリア教」へ

 本書のキリスト教的に興味深い点は、男女のパワーバランスが逆転することで、キリスト教教義そのものも変容していくことです。具体的には男性のイエス・キリストに主眼が置かれるのでなく、女性である母マリアが(カトリック教会とはまた違った意味で)重要視されるようになります。「神の子」より、「神の子を産んだ母」の方が偉大であり、神聖であると考えられるわけです。その説を提唱した家出少女のアリーは、「マザー・イヴ」として讃えられ、さながらローマ教皇のような存在になります。

 マザー・イヴは言った。閉じ込めるというなら閉じ込めさせればいいのよ。全能の母が奇跡を起こしてくださる。
(「パワー」106ページより)

 この教義の変容は決して荒唐無稽なものでなく、実際に男女の立場が逆転したら容易に起こり得るのではないか、とわたしは思いました。現在の(特に日本の)キリスト教界では重要なことは全部男性たちが決めますが、それは男性側に権力が集中しているからであって、その権力の集中は本質的に、男性たちの物理的な力、腕力に依拠しています。その物理的な力を女性たちが持ったなら、男性たちは強く(当然のように)あれこれ主張できなくなるでしょう。現在、女性たちがそうできないように(あるいは主張しても一笑に付されて終わってしまうように)。

 宗教における「教祖がそもそも説いた教え」の純粋性は、その後の人間たちの(特に性別による)パワーバランスによってどうにでも歪められ、変容されてしまいます。キリスト教界が現在のような組織になり、男性教職者が多数を占めるようになっているのが、皮肉ながらそれを証明しているのではないでしょうか。

「強い女性キャラ」の女神性

 昨今の多くの物語には「強い女性キャラ」が登場し、人気を集めています。有名なところで言えばスタジオ・ジブリの「風の谷のナウシカ」(宮崎駿監督・1984年)のナウシカや、「もののけ姫」(同監督・1997年)のサンなど。またジェイムズ・キャメロン監督作には必ずと言っていいほど「強い女性キャラ」が登場します。「ターミネーター2」(1991年)のサラ・コナー、「エイリアン2」(1986年)のエレン・リプリーとヴァスケス、「アバター」(2009年)のネイティリとトゥルーディなど。どのキャラも「男勝り」の活躍を見せます。最近では「マッド・マックス/怒りのデス・ロード」(ジョージ・ミラー監督・2015年)のフュリオサ大隊長が記憶に新しいでしょう。

「大勢の男性群に混じるわずかな強い女性キャラ」たち

「大勢の男性群に混じるわずかな強い女性キャラ」たち

 しかし男性監督によって作られた、「大勢の男性群に混じるわずかな強い女性キャラ」には、一種の「女神性」が仮託されているように思います。というのは彼女らは決して間違えることがなく、いつも物事の本質をとらえ、正しいことを為し、必要とあらば自ら犠牲となることを厭わない、「完璧な女性」ばかりだからです。葛藤と無縁の女性たちです。それは男性が理想とする女性像、「こういう女性であってほしい」という妄想ではないでしょうか。

 その点、「パワー」に登場する女性たちは様々です。ロクシーは「スケイン」の力を使ってギャングの幹部に成り上がりますし、アリーは素性を隠して聖職者になりすまします。マーゴットは自分の立場を危うくする男性政治家を蹴落とすのに内心必死です。完璧どころか多くの葛藤を抱えています。また彼女らは「大勢の男性群に混じるわずかな強い女性キャラ」ではありません。「女性がみんな強い世界」に生きる女性たちです。立ち位置が全然違います。

 そう考えますと、男性が作る女性キャラ、あるいは女性が作る男性キャラには、ある種の(時に行き過ぎた)理想が込められているのかもしれません。そういった視点、つまりどの性別の誰が作った物語かと考える視点は、今後ジェンダーの観点から必要になってくるのではないでしょうか。

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 今回は以上になります。最後までお読み下さり、ありがとうございました。今週も皆さんにとって良い一週間となりますように。ではまた来週日曜日にお会いしましょう。(ふみなる)

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