「神は死んだのか」より大切な問い

ふみなるのニュースレター第29号。映画「神は死んだのか」に見るキリスト教会の社会問題への無関心さと、内輪で盛り上がる独善性。約1500字。
ふみなる 2021.09.26
誰でも

もはや無邪気な信仰者でないと実感した瞬間

 「神は死んだのか」(2014年/ハロルド・クロンク監督)は大学生が哲学教授を相手に「神の存在証明」に挑むクリスチャン映画です。タイトルはニーチェの「神は死んだ(God is dead)」をあえて文字ったものでしょう。本作はアメリカで小規模に公開されたものの異例のヒットとなり、同年日本でも公開されました。わたしは有楽町の映画館に見に行きましたが、ほぼ満席だったと記憶しています。

 当時、わたしの教会が解散して2年ほど経っていました。ペンテコステ派の信仰(+教会独自のカルト的信仰?)ですっかり混乱していたわたしにとって、「神の存在証明」は大切なテーマでした。神は本当にいるのか? いるなら何故あんな酷いことが起こったのか? そう悩む中での鑑賞でした。

 大学1年生のジョシュは熱心な福音派クリスチャン。初めて受講した哲学クラスでいきなり「試練」に遭遇します。無神論者のラディソン教授から、「神は死んだ(God is dead)」と宣言するよう求められるのです(事実ならアカハラですが)。単位が欲しいだけの学生らは気軽に宣言しますが、ジョシュはどうしてもできません。神を否定したくないからです。結果、怒ったラディソン教授に「ならば神の存在を証明してみろ!」と迫られてしまいます。

ジョシュは教授と対決することになる(映画「神は死んだのか」より)

ジョシュは教授と対決することになる(映画「神は死んだのか」より)

 熱心なクリスチャンだった頃のわたしなら、信仰か将来かの選択を迫られるジョシュに同情して、心から応援したことでしょう。しかし教会の裏側を見せられたばかりだった当時のわたしは、映画の作り手の意図(福音派のプロパガンダ)をこれでもかと見せられたようで、全く乗れませんでした。自分がもはや無邪気な福音派信仰者でないことを、映画館の暗がりの中で、わたしは改めて実感したのでした。

内輪で盛り上がる独善性

 本作は群像劇のスタイルを取っていますが、

①クリスチャンたちがそれぞれの場所で苦境に立たされる

②迫害者たち(無神論者や他宗教の人たち)が優位に立つ

③対峙する両者の形勢が徐々に逆転していく

④クリスチャンたちが「勝利」を治める

⑤迫害者たちが不幸(交通事故や病気など)に見舞われる

 というパターンが繰り返されます。そして最後は、クリスチャンたちがコンサート会場で神様を賛美して大団円(その会場近くで、車に撥ねられたラディソン教授が泣きながら死んでいくのですが)。「信仰の勝利」が強調されて終わります。「クリスチャンでないと不幸な目に遭う」「クリスチャンは苦境に立たされても最後は勝利する」というメッセージが強烈でした。クリスチャンvsノンクリスチャンの分断を煽っているようでもありました。

 期待した「神の存在証明」の部分も、議論が深められたとは言えません。感情的なレトリック(「神が憎い」と言う教授に対して「存在しないものは憎めません」とジョシュが返す)で決着してしまいます。

無事に「勝利」して賛美で盛り上がるエンディング(映画「神は死んだのか」より)

無事に「勝利」して賛美で盛り上がるエンディング(映画「神は死んだのか」より)

その近くで交通事故で死にゆく"悪の"教授(映画「神は死んだのか」より)

その近くで交通事故で死にゆく"悪の"教授(映画「神は死んだのか」より)

 中でもわたしが一番モヤモヤしたのは、前述のコンサート会場で賛美に盛り上がるクリスチャンたちの熱狂ぶりと、その近くの路上で事故に遭い、涙に濡れて死んでいく無神論者の残酷な対比です。それは福音派教会にありがちな、社会問題に対する無関心さと、内輪で盛り上がる独善性をよく表しているように見えました。あれが「ハッピーエンド」だとしたら、キリスト教の言う「神の国」とは、一体何なのでしょうか。

「神は死んだのか」より大切な問い

 このニュースレターでは毎回わたしがお勧めする映画や小説、漫画等を紹介していますが、今回は反面教師として本作を取り上げました。福音派系のクリスチャン映画の共通点は「神を信じれば具体的に祝福される(繁栄する)」「祈れば問題が解決する」「クリスチャンは最終的に成功する」というメッセージです。

 しかしそれはあくまで個人レベル、教会レベルの繁栄であり、解決であり、成功でしかありません(しかも何の保証もないスローガンでしかありません)。その意味で、非常に自己中心的な態度ではないでしょうか。わたしたちクリスチャンが問われているのは、「神は死んだのか」どうかの議論に終始することでなく、「わたしたちはクリスチャンとしてこの社会の中でどう生きるべきなのか」であり、その実践に尽きるのではないか、とわたしは思います。

今回紹介した作品

 オンライン投げ銭はこちらからしていただけます。

お知らせ

 本日(9月26日)の午後10時より、Twitterスペースにて「同性愛差別が起こった時、アライとして何ができるか、何をすべきか、当事者とともに考える会」を開催します。約束の虹ミニストリーのメンバーとの共催です(参加無料、申し込み不要)。最後に質疑応答&意見交換の時間もあります(下のリンクから入場できます)。

無料で「ふみなるのニュースレター」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
「事実」は人の数だけある?
誰でも
地獄はどこにあるのか
誰でも
魔女に襲われる話でなく、魔女を作り出す話
誰でも
性善説vs性悪説
誰でも
運命と自由意志の両立
誰でも
最後のエバ
誰でも
神も悪魔も人間以下?
誰でも
アライと表明すべきか問題