「偽り」と「信仰」の境界が曖昧になる

ふみなるのニュースレター第27号。「脱同性愛運動」は「偽り」だったのか、それとも「信仰」だったのか。紹介する映画は「祈りのもとで:脱同性愛運動がもたらしたもの」。約2200字。
ふみなる 2021.09.12
誰でも

「偽り」と「信仰」の境界が曖昧になる

 「祈りのもとで:脱同性愛運動がもたらしたもの(原題:Pray Away)」はクリスティン・ストラキス監督の2021年のドキュメンタリー映画です。「同性愛矯正治療」(コンバージョン・セラピー)を謳うキリスト教団体「エクソダス・インターナショナル」の始まりから終わりまで、そしてその後の影響について描いています。主に同団体の指導者、広告塔だった人たちへのインタビューと、それを裏付ける過去映像で構成されますが、このような組織(キリスト教会を含む)の内部事情が、その中枢を担った人々によって明かされ、しかも映画となって公開されるのは稀なことです。

本作は現在(2021年9月現在)ネットフリックスで視聴可能

本作は現在(2021年9月現在)ネットフリックスで視聴可能

 同団体の指導者らも皆レズビアンやゲイです。彼らは「自分は転向した」と言い、「どうすれば(どう聖書の教えに従えば?)転向できるか」教えます。しかしそんな彼らが「本当は転向などしていなかった」とカメラに向かって語ります。ではなぜそんな「活動」をしたのでしょう? それこそが「信仰」のなせるわざかもしれません。

 彼らが「エクソダス・インターナショナル」を立ち上げた1970年代は、米キリスト教福音派による反同性愛運動が本格化した時代でもあります。1969年のストーンウォール事件以来活発化した、LGBT解放運動に対するカウンターとしてです。福音派教会では「同性愛は罪」「同性愛は神の秩序に反する」という言説が声高に叫ばれるようになり、「そのままでは天国に入れない」とされました。そこで育つ子たち(特に信心深い親のもとで育つ子たち)は、自分の同性愛指向を認識すると同時に「これは罪なのだ」と苦しみ、「地獄行きだ」と悩むことになります(クリスチャン人口が日本より多いアメリカにおいては、教会コミュニティからのプレッシャーも強かったでしょう)。

 そこで「異性愛指向に転向できる」と言われたどうでしょう。期待をかけて飛びつく子も多いのではないでしょうか。事実「エクソダス・インターナショナル」は1976年の開設時から爆発的に成長していきます。それだけニーズがあったことに他なりません。もっともこのニーズとは、純粋に「異性愛指向になりたい」のでなく、「同性愛指向でいるのは辛すぎるから」ですが。

 わたしは吃音症ゆえ、幼い頃から喋ることにおいて苦労を重ねてきました。なぜ自分はこうも喋れないのかと悩み、よく分からない何かに対して怒りました。普通に喋れるようになるなら何だってする、と思いました。そして19歳の時あるペンテコステ教会に出会い、「吃りも治る」(原文ママ)と言われ、内心喜び踊りました。

 しかし待っていたのはさらなる葛藤の日々です。

「祈って聖霊に満たされれば治ります」

「普通に喋れるように振る舞いなさい(先取りして治ったように振る舞いなさい)」

「疑ってはなりません」

 しかしいくら祈っても、いくら振る舞っても、わたしは吃り続けました。むしろ悪化しました。「喋れるか喋れないか」に意識を集中しすぎたからかもしれません。それでも教会では、(祈ったりアドバイスしてもらったりした手前)「良くなっている」よう見せなければなりません。結果、わたしはあまり喋らなくなりました。そしてあくまで平気な振りをしました。

 それはわたしにとって「偽り」ではなく、「信仰」でした。

 「エクソダス・インターナショナル」に参加したLGBTの方々も、それと似たような心境だったかもしれません。自分のことと重なって胸が痛みます。

 同団体の元理事長、ジョン・ポーク氏は同性愛指向が「治った」として女性と結婚し、メディアの注目を集めましたが、結局「治っていない」ことが発覚して同団体を去りました。彼は「嘘をついて参加者を騙した」と糾弾される立場にあるでしょう。けれどわたしには彼が意図的に(明確に騙すつもりで)偽ったとは思えません。当時は「治った」と信じていた、あるいはそう信じたかったのではないでしょうか。

 他の出演者らも声を揃えて「当時は本気でそう信じていた」と語ります。

 もちろん期待して集う参加者に事実でないこと(自分が本当には「治っていない」こと、こうすれば「治る」という方法論が存在しないこと)を語るのは褒められたことではありません。しかし前述の通り「同性愛指向では辛すぎる」環境においては、そうすることで自分を保つ側面が(指導者側にも参加者側にも)あったのではないでしょうか。

終わっても終わらない

 実際に「エクソダス・インターナショナル」でトラウマを負わされた参加者がこのドキュメンタリーを見たら、どう思うのでしょうか。というのは作中で語るのが指導者や広告塔といった「加害者側」の人たちばかりだからです。それも上手に喋れる人たちです。「被害者側」の声、特に声にならない声が無数に存在するのではないでしょうか(自死を選んでしまった方も少なくないと聞きます)。

 もちろん内部情報を明かし、問題点を明確にするドキュメンタリーとして本作は大いに価値があると思います。しかし「加害側」の人々が、たとえ反省の弁であれ、画面に大きく映し出されて語る姿は、「被害側」の人々の目にどのように映るのでしょう。

 たとえば(問題の種類が違いますが)わたしの教会の牧師は様々な問題を起こして行方をくらましました。何の説明も謝罪もなく、何一つ解決しないまま教会だけ解散しました。その牧師がもし今ごろになって現れて、ドキュメンタリーの中で「自分が間違っていました」などと涙ながらに語ったとしたら、わたしが真っ先に思うのは「お前それカメラより先に言う相手がいるだろ?」です。

 コンバーション・セラピーを受けた人は全米で70万人に上るそうです。「エクソダス・インターナショナル」はその過ちを認めて2013年に活動を終えましたが、その被害を引きずる人は今も多くいます。「まだ何も終わっていない」と感じる人も少なくないでしょう。わたしの教会の問題が、解散してもまだ何も終わっていないのと同じように。(ふみなる)

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