インフォームド・コンセントを取らなかったキリスト/小説「ペット・セメタリー」

スティーブン・キングの1983年の小説「ペット・セメタリー」から、聖書の「ラザロの復活」について考えます。癒しや奇跡を行うのにいつもインフォームド・コンセントを取っていたキリストですが、ラザロに対しては……?
ふみなる 2021.06.27
誰でも

身近な恐怖

 「ペット・セマタリー」(Pet Sematary)は1983年のスティーブン・キングのホラー小説です。「霊園」や「墓地」を意味する”Cemetery”の綴りが”Sematary”となっているのは、劇中に登場するペット墓地の手作り看板”Pet Sematary”からきています(看板を作った子どものスペルミス、という設定)。

 本作はキングが「推敲する気になれないほどおぞましくて発表が遅れた」といういわくつきの作品です。具体的にどこが「おぞましい」のか語られていませんが、もしかしたら子どもが二度死ぬ話だからかもしれません(キング作品ではよく子どもが死にますが、「子どもが二度死ぬ」のはおそらく本作だけです)。

 メイン州の田舎町に越してきたルイスは、幼い息子ゲイジを目の前で交通事故で亡くします。気づくのがあと数秒早ければゲイジは死ななかったのに……という罪責感と後悔に苛まれるあまり、ルイスは偶然知った「埋めた死者を生き返えらせる禁断の地」にゲイジの遺体を埋めてしまいます。すると息子は生き返り、家に帰ってきます。が、それはもう彼の愛したゲイジではありませんでした。

事故が起こる前の父子(映画「ペット・セメタリー」1989年版)

事故が起こる前の父子(映画「ペット・セメタリー」1989年版)

 本作は恐怖小説に分類されますが、生き返って怪物化した息子が襲いかかってくるオカルト的な恐怖より、「大切な人を亡くしてしまう」日常的な恐怖と、「大切な人にもう一度会えるなら禁忌を破ってでも会いたい」葛藤に主眼が置かれているように思います(本作は幼い子どもが遭いやすい危険を冒頭から何度も見せていて、ハラハラさせられます)。

 キングの作品にはゾンビや吸血鬼や殺人ピエロなどのモンスターが沢山登場しますが、それらはあくまで舞台装置に過ぎず、いつも核心にあるのは「誰の身にも起こりそうな日常的な恐怖」であり、もっと言えば「大切な人(もの)を失う恐怖」です。どこか遠くの話でなく、「これが自分の身に起こったらどうしよう」とつい考えさせられる、そこがキングの作品の魅力かもしれません。

インフォームドコンセントを取らなかったキリスト

 生き返って凶暴化したゲイジを、ルイスはやむを得ず「もう一度」死なせます。致死薬を注射されたゲイジは死に際、「ずるい」(Not fair)と繰り返します。勝手に生き返らせておいて、今度は勝手に死なせるのか、という抗議です。

 確かに死んだ人を生き返らせるのは、(それが可能だとして)生きている人間の思惑です。死んだ人のそれではありません。「生き返ることができるなら、生き返りたいと願うはずだ」と生者は考えますが、死者が「生き返りたい」と願っているかどうか定かでありません。

 ちなみに本作は1989年と2019年にそれぞれ映画化されていますが、後者では生き返った子が「なんで生き返らせたんだ」と抗議する場面があります。生き返りたくなんてなかった、ということです。

「邪悪な何か」になって帰ってきたゲイジ(映画「ペット・セメタリー」1989年版

「邪悪な何か」になって帰ってきたゲイジ(映画「ペット・セメタリー」1989年版

 クリスチャンが「死者の復活」と聞いて連想するのは、ヨハネによる福音書11章のラザロの復活かもしれません。

(イエスは)大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」 ※( )内は筆者
(ヨハネによる福音書11章43-44節/口語訳)

 ラザロが病気だと知らされたイエスは、2日待ってからベタニヤに向かいます。しかし既にラザロは死んでおり、埋葬されて4日が過ぎていました。ラザロの姉妹のマルタとマリヤは「あなたがいれば(奇跡的に癒されて)彼は死ななかったでしょうに」と口々に嘆きます。そこでイエスは「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」という有名な言葉と共に、ラザロを生き返らせます。

 残念ながら、この時のラザロや周囲の人々の反応は書かれていません。姉妹はきっと喜んだでしょう。けれどラザロ本人はどうだったでしょうか。そしてちなみに彼は死んでいる間、どこにいたのでしょうか(キリスト教の一部の解釈では「よみ」にいたことになっています)。

 これを「ペット・セメタリー」のゲイジと重ねてみますと、「ラザロは生き返りたかったのだろうか……?」と疑問に思ってしまいます。

 福音書においてイエスは沢山の「奇跡」や「癒し」を行なっていますが、その前に「どうなりたいのか」「何をしてほしいのか」と相手に尋ねています。たとえば盲人バルテマイがイエスに向かって激しく叫んだ時、イエスは涼しい顔で(かどうか分かりませんが)「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねました。バルテマイは「先生、見えるようになることです」と答えますが、そんなことは状況的に分かりきっています。なぜわざわざ聞くのでしょうか(マルコによる福音書10章)。

 しかしこれは現代的には「インフォームドコンセントを取る」行為です。医療現場においては「説明と同意を経て患者が治療方針を自分で決める」ための大切なプロセスです。イエスは二千年前の時点できっちりインフォームドコンセントを取っていて流石です。

 だからこそ際立つのですが、イエスはラザロに関しては一切インフォームドコンセントを取っていません。もちろん取りたくても取れない状況ですが、であれば勝手に生き返らせていいと思ったのでしょうか。ラザロの意思が完全に無視されているように見えます。

 もっと言えば、ヨハネによる福音書11章を通して読んでみますと、イエスはあえてラザロを死なせたように思います。ラザロの病気を知ってなお2日留まり、死ぬのを待っていた(ように見える)からです。これは言い方が悪いですが、死人を生き返らせるパフォーマンスを見せるために、ラザロを利用したのではないでしょうか。どうにもイエスらしくない気がしてしまいます。

 実はキング自身、「ペット・セメタリー」の冒頭でラザロの復活の箇所を引用しています。おそらくこのエピソードから着想を得たのでしょう。そして生き返らせるイエスの視点でなく、無断で生き返らせられたラザロの視点を、物語に取り入れようとしたのかもしれません。

 その意味で「ペット・セメタリー」は、聖書のなかなか言及されない部分に光を照らしていると言えるでしょう。

悲劇的な結末を迎えるルイス(映画「ペット・セメタリー」1989年版)

悲劇的な結末を迎えるルイス(映画「ペット・セメタリー」1989年版)

小ネタ① 2つの映画の違い

 前述の通り、本作は2度映画化されています。1989年版(メアリー・ランバート監督)と2019年版(ケヴィン・コルシュ/デニス・ウィドマイヤー監督)です。どちらも物語の骨子は同じですが、前者がより原作に忠実なのに対して、後者は(2度目ということもあり)改変が目立ちます。

 最も違うのは、1989年版で生き返るのが息子のゲイジなのに対して、2019年版が娘のエリーになっている点でしょう。またゲイジがひたすら邪悪な存在だったのに対して、エリーは「無理やり生き返らせられた者の苦しみ」を表現しています(それが凶行の動機ともなっています)。結末がより悲惨なのも後者です。ご興味あれば、ぜひ見比べてみて下さい。

小ネタ② 「猿の手」との類似

 本作はW.W.ジェイコブズの1902年の短編小説「猿の手」と類似しています。3つの願いをなんでも叶えてくれる「猿の手」を手に入れた夫婦が大金を願うと、息子が事故で死んで、代わりに大金が手に入ります。今度は息子が生き返るよう願うと、その夜ドアをノックする不気味な音が聞こえてきて……。

 「猿の手」の全文はこちらから読むことができます。↓

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 今回は以上になります。最後までお読み下さり、ありがとうございました。また来週お届けします。皆さんどうぞ良い一週間をお過ごし下さい。(ふみなる)

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