キリスト教を知るともっと分かるようになる映画の話/第2回「セブン」

キリスト教に直接関係ない映画に潜むキリスト教要素を読み解きます。今回は1995年に公開され第68回アカデミー賞にノミネートされた、人気スリラー映画「セブン」。
ふみなる 2021.03.28
誰でも

 こんにちは、ふみなるです。

 theLetterの投稿第3回目です。

 前回に続き、「キリスト教に直接関係ない映画の中に背景として描かれるキリスト教要素」について書きます。今回取り上げるのは1995年のデヴィット・フィンチャー監督の映画「セブン」です。

タイトル(映画「セブン」)

タイトル(映画「セブン」)

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殉教する説教者

 「セブン」はケヴィン・スペイシー演じる犯人ジョン・ドウ(名無しの意味)が、キリスト教の「七つの大罪」をテーマに連続殺人を犯すスリラー映画です。貪食、強欲、怠惰、淫蕩、傲慢、嫉妬、憤怒をそれぞれ被害者に当てはめ、「これは死に値する罪だ」というメッセージを人々に届けるのがジョン・ドウの目的でした。彼を追う刑事の一人、サマセット(モーガン・フリーマン)が「これは説教だ」と評した通り、ジョン・ドウは自分を「説教者」と考えていたようです(キリスト教の聖職者だったわけではないようですが)。

 ちなみに「七つの大罪」はカトリックの教えです。プロテスタントにはありません。劇中にも登場するダンテの「神曲・煉獄編」で取り上げられ、有名になった概念です(信者でない人が「キリスト教」をイメージするとき、そのほとんどはカトリックのものかもしれません)。

 ジョン・ドウの殺害方法は非常に猟奇的で、強いメッセージを放つものでした。

 例えば初めの被害者(貪食)は無理やりパスタを食べさせられます。吐いても吐いても食べさせられ、最後は内臓破裂で絶命しました。次の被害者(強欲)は自分の肉を1ポンド分ぴったり切り取られます。これはハムレットの「ヴェニスの商人」に登場する強欲な商人シャイロックを想起させます。

猟奇殺人を繰り返すジョン・ドウ(映画「セブン」)

猟奇殺人を繰り返すジョン・ドウ(映画「セブン」)

 ジョン・ドウの目的は殺人そのものでなく、その異常な殺害方法を人々に広く知らしめる(そして恐れさせる)ことでした。

 その異常さは最後の殺人で極みに達します。ジョン・ドウは刑事ミルズ(ブラッド・ピット)に自分を撃たせることで、自分自身が最後の犠牲者(嫉妬)となるように仕組んだのです。これは自らを殉教者として昇華させるためでした。

※ただし憤怒の罪を犯したミルズ刑事は死ぬわけではないので、「7つの罪で7人が死ぬ」というジョン・ドウの論理は破綻していると思います。

 殉教はキリスト教において尊いものとされます。

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネによる福音書15:13/新改訳)
新約聖書

 とありますが、イエス・キリストの十字架刑はキリスト教の伝統的な解釈では「全人類の救いのための殉教」とされています。他にもステパノやパウロやペテロといった殉教者がおり、その後のローマ帝国でも激しい迫害の中で多くの信者が殉教しました。 今も熱心な信者ほど、(実際にするかどうかは別として)殉教に対する憧れを持っていると思います(わたしもかつて持っていました)。ジョン・ドウもその一人だったのではないでしょうか。 

 もちろんジョン・ドウの殉教は褒められたものではありません。身勝手な動機で6人(胎児を含むと7人)を殺し、自分も殺されるよう仕向けたのですから、異常という他ないでしょう。

 ただジョン・ドウだけが殊更異常で、殊更身勝手だったかというと、そうでもないとわたしは考えます。というのは今も身勝手な動機で自らの信仰を他者に押し付けるクリスチャンは少なくないからです。

 歴史を振り返ってみれば、キリスト教は世界に対して自らの信仰を押し付けてきました。十字軍しかり、大航海時代の植民地化しかり。その過程で犠牲になった人々はしばしば殉教者として称えられましたが、さて、それは本当に尊いものだったのでしょうか。

 その意味でジョン・ドウは、キリスト教信仰の原理主義的側面を具現化した存在と言えるかもしれません。

トレイシーは2度犠牲になった

 「セブン」はブラッド・ピット、モーガン・フリーマン、ケヴィン・スペイシーといった豪華俳優陣の共演でも話題ですが、忘れてならないのがグウィネス・パルトロー扮するトレイシーです。

 トレイシーはミルズ刑事の妻で、もとは学校の教職だったようです。「都会でタフな刑事として活躍したい」という夫の願望に従って、自身のキャリアを捨てて都会にやってきました(ちなみに舞台となる街はニューヨークをモデルとしています)。

 彼女はこの街が嫌いです。頼れる友人はなく、夫は仕事漬けで、孤独です。しかもこのタイミングで妊娠が分かり、夫に話すべきかどうか(産むべきかどうか)悩んでいます。

 トレイシーの出番は多くありませんが、そんな彼女の葛藤が短いシーンから伝わってきます。

サマセット刑事に悩みを打ち明けるトレイシー(映画「セブン」)

サマセット刑事に悩みを打ち明けるトレイシー(映画「セブン」)

 彼女はこの時点で、既に犠牲者なのです。

 これは現代に生きる女性の多くに共通した犠牲と言えます。(特に日本では)賃金は平均的に男性より低く、結婚や育児でキャリアは潰され、夫に依存しなければ生活できない立場に追いやられがちです。

 トレイシーのそういった事情に対する言及が何もなく、むしろ当然とさえされているのは、本作が95年の作品だからかもしれません。2021年現在であれば、トレイシーはまた違った描き方になったかもしれません。

 本作をご覧になった方はご存知かと思いますが、トレイシーは終盤、ジョン・ドウの「七つの大罪」計画に巻き込まれる形で胎児もろとも殺害されてしまいます。

 それを知らされたミルズ刑事が激怒してジョン・ドウを射殺するのですが(憤怒の罪)、そもそもトレイシーがターゲットにされたのは、ミルズ刑事の捜査によるところが大きいです。その意味でトレイシーは2度、夫の犠牲になったと言えます。

ジョン・ドウを撃つべきか迷うミルズ刑事(映画「セブン」)

ジョン・ドウを撃つべきか迷うミルズ刑事(映画「セブン」)

 ミルズ刑事は若い熱血刑事として描かれますが、愛する妻を2度(直接的であれ間接的であれ)犠牲にしたという意識はあったでしょうか。もちろんジョン・ドウの犯行の原因がミルズ刑事にあったわけではありませんが、そういったジェンダー差別の意識は希薄だったのではないかな、とわたしは思います。

終わりに

 今回は以上になります。次回は映画「テルマ」のキリスト教要素を読み解いていきます。

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