キリスト教信仰は感動してなんぼ?

一部のキリスト教会は「笑いと感動」がエネルギー源になっていないでしょうか。それは信仰者というより常に新しい「感動」を必要とする感動消費者ではないでしょうか(約2300字)。
ふみなる 2021.07.11
誰でも

キリスト教会で行われる障害者の感動ポルノ化

 1989年、脳性小児麻痺で首以外動かせないリック・ホイトが、その父親ディック・ホイトの全面的なサポートを得て、トライアスロン競技の最高峰「アイアンマン世界選手権」に参加しました。具体的にはリックを乗せたボートをディックが引きながら泳ぎ、リックを乗せた自転車をディックがこぎ、リックを乗せた車椅子をディックが押しながら走ったのです(14時間26分4秒で完走しました)。ディックの強靭的な肉体と”家族愛”が当時は感動を呼んだようです(日本ではさほど話題にならなかったと記憶しています)。

 二人は「チーム・ホイト」を結成し、37年間競技生活を続けました。そして引退と同じ2014年、この二人をベースにした映画「グレート・デイズ!-夢に挑んだ父と子-」(ニルス・タヴェルニエ監督)が公開されました(実録映画でなく、特に父子関係が脚色されたフィクションです)。日本障がい者スポーツ協会推薦の本作は、障がい者スポーツの文脈で今もしばしば取り上げられます。

リックを抱えてゴールを目指すディック(映画「グレート・デイズ!ー夢に挑んだ父と子ー」より)

リックを抱えてゴールを目指すディック(映画「グレート・デイズ!ー夢に挑んだ父と子ー」より)

 しかしながらわたしが「チーム・ホイト」を知ったのは、障がい者スポーツの文脈でなく、プロテスタント教会の礼拝ででした。

 ある礼拝のゲスト講師(わたしの教会はよく海外からゲスト講師が来ました)が、「父なる神の愛の深さ」と題してホイト親子の動画を流したのです。それは”My Redeemer lives”というコンテンポラリー賛美をBGMにした、「クリスチャン向け」に再編集されたものでした。当時ホイト親子のことなど何も知らなかったわたしたち信徒は、てっきり「クリスチャンの親子が障害を乗り越えて頑張っているのだろう」と思って見たものです(その後調べた限りでは、親子がクリスチャンだとは確認できませんでした)。

 動画はこちらから↓

 感動的なBGMとともに、夕日にきらめく大海原が映し出されます。そこをリックを乗せたゴムボートがゆっくり進んで行きます。そのボートを引くロープの先には、父親ディックの懸命に泳ぐ姿が。なんと、父親が息子を乗せたボートを引きながら泳いでいるではありませんか! ここでゲスト講師の語りが入ります。「父なる神は、このようにあなたを運んで下さるのです!」

 すぐに周囲から、鼻を啜る音が聞こえてきました。早速ハンカチを目頭に当てて泣いている人もいます。壇上の牧師も感極まった様子。会堂は静かな感動に包まれました。ゲスト講師はYouTubeに上げられた動画一本で、「父なる神の愛の深さ」を見事伝えたのでした。なんて簡単な説教でしょう(今だから客観的に書けますが、当時はわたしも感動して目頭を熱くしていました)。

 確かに旧約聖書のイザヤ書に、その旨のことが書いてあります。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」
イザヤ書46章4節/口語訳

 しかし新約聖書のキリストの十字架のくだりは、「子を背負って運ぶ親」というより「子を犠牲にする親」ではないでしょうか。またホイト親子の動画を、本人たちの意図に関係なくキリスト教の文脈に乗せ、クリスチャン向けに再編集して「キリスト教的感動譚」に仕立て上げてしまった点に正直モヤモヤします。障害者の感動ポルノ化ではないでしょうか。「ほら、感動的でしょう? さあ泣きなさい」と言われているようです。

キリスト教信仰は「感動」してなんぼ?

 似たような話で思い出すのが、「フットプリント(足あと)」という作者不詳の詩です。いくつかバリエーションがあり、既にどれがオリジナルか(あるいはオリジナルが存在するかどうかも)分からなくなっていますが、概要は以下の通りです。

 神様と並んで砂浜を歩いていた。振り返ると足あとは二人分。でも気づくと一人分になっていた。神様、あなたはどこへ行ってしまったのですか。すると神様が語られた。「わたしはずっと一緒にいる。あなたを背負って歩いてきたのだ(だから足あとが一人分だった)」

 これも感動を呼ぶ話として福音派・聖霊派系の教会でよく使われたと記憶しています。賛美の歌にもなりました。つくづく「感動」が好きだったなと思います。わたしの牧師が(スタッフ向けに)よく教えていたのは、「説教は最初に笑いを取り、次に適当な聖句を引用し、最後は十字架に繋げて感動させればいい」でした。どれだけ「感動」が重視されていたか分かります。

 もちろん感動するのは悪くありません。わたしも感動したくて好きな映画のワンシーンだけ見ることがよくあります。ですが信仰と結び付けて「キリスト教=感動する(させる)もの」のなってしまうのは本末転倒ではないかと思います。東京オリンピックを間近に控えた今、「スポーツで感動を」みたいな言葉が盛んに言われていますが、似たような感動の押し付けを感じます。

「ソウル・サーファー」をキリスト教映画に仕立てる感動消費者

 映画「グレート・デイズ!-夢に挑んだ父と子-」と似た構図の映画が「ソウル・サーファー」(ショーン・マクナマラ監督/2011年)です。ハワイでプロサーファーを目指す少女べサニーが鮫に左腕を食いちぎられ、一度は夢を諦めますが、様々な経験を通して再起していく実話映画です。

実際のべサニー・ハミルトン

実際のべサニー・ハミルトン

 べサニー本人がクリスチャンであり、ホームスクーラーでもあったことから、日本のキリスト教系ホームスクール支援団体「チア・にっぽん」が本作を大きく取り上げ、まるでキリスト教映画であるかのように宣伝しました(実際には教会の礼拝に出席するシーンが一箇所あるだけです)。ここにも本人の意図に反した感動ポルノ化があるように思います。

 一部の(わたしが所属していたような)キリスト教会は「笑いと感動」がエネルギー源になっているように思います。よく笑ってよく感動することで信仰を実感し、「信じて良かった」と思わせるのです。その意味で、常に新しい感動を必要とします。次々と感動を貪り食って肥大化する感動消費者ではないでしょうか。

 これは逆に言えば「感動しなければ信仰を維持できない」と言っているようなものです。むしろ信仰の脆弱さを露見しているような気がしてなりません。礼拝後に「恵まれました」と声を掛け合う教会がありますが、それは言い換えれば「今日も感動できました」ということであり、「恵まれる(感動する)ために教会に来ている」ことの表明に聞こえます。

今回取り上げた映画

「グレート・デイズ!ー夢に挑んだ父と子ー」

「ソウル・サーファー」

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