代替可能なオンリーワン/映画「ブレードランナー」

映画「ブレードランナー」と続編「ブレードランナー2049」に見る人間と機械、機械と機械の関係について。それはオンリーワンなのか、それとも代替可能なのか。約3200字。
ふみなる 2021.06.06
誰でも

 こんにちは、ふみなるです。今回はSFのカルト的名作「ブレードランナー」と続編「ブレードランナー2049」から、人間と機械の関係、機械と機械の関係について考えていきます。それはオンリーワンなのか、それともいくらでも代替可能なのか……。

 キリスト教要素はほとんど書いていませんが、どうぞ最後までお付き合い下さい。約3200字です。

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二人の行方は、誰も知らない……

 映画「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督/1982年)はSFの金字塔であり、今やサイバーパンクものの古典です。それまでの「クリーンでアンニュイな(ありそうもない)未来世界」の逆を行く、「環境破壊が進んだ退廃的な(リアルな)近未来」を初めて映像化した作品でもあります。本作の影響を受けたSF作品が今に至るまで、多く作られてきました。

 本作の魅力はその世界設定にあると言っていいでしょう。年中雨が降り続く、暗く薄汚いロサンジェルス。人種のるつぼと化した東京の満員電車のような繁華街。体の一部を機械化した人間や、人間そっくりの人造人間(以下、レプリカント)。空飛ぶ車。宇宙進出。多くの動物が絶滅したため高値で売られる人造動物。その作り込まれた近未来世界に、わたしは初見ですっかり圧倒されました。

革新的だった近未来世界のビジュアル(映画「ブレードランナー」)

革新的だった近未来世界のビジュアル(映画「ブレードランナー」)

 一方でストーリーは至ってシンプルです。レプリカント専門の捜査官(ブレードランナー)のデッカードが、反乱を起こした逃亡レプリカントを一人一人「廃棄処分(=殺して機能を止めること)」していきます。しかし処分対象の一人、女性型レプリカントのレイチェルに恋してしまい、彼女を連れて逃避行に出ます。二人の行方は、誰も知らない……というエンディングが芥川龍之介の「羅生門」を意識したものかどうかは、定かでありません。

愛か支配か

 このレプリカントは人間そっくりで、高い知能と身体能力を持っています。また数年経つと感情が芽生え、人間と同じような喜怒哀楽を持つようになります。しかしあくまで「作られた存在=製品」ですから、人権はありません。ただ使役され、消費されるだけです。劇中の説明によると、惑星探査や核廃棄物の処理、兵士相手の性処理といった、過酷な労働に従事させられています。奴隷と変わりません。死んだら(壊れたら)取り替えられるだけです。そしてそれにNOを突きつけて反抗すれば、容赦なく「廃棄処分」されます。その構造は否応なく、白人による黒人奴隷制度の歴史を想起させます。

 その意味でデッカードがレイチェルを連れて逃亡したのは、ささやかな奴隷解放運動と言えます。デッカードは彼女のためにキャリアも生活も全て捨てましたから、並々ならぬ決意と覚悟だったでしょう。

 しかし一方で、デッカードのレイチェルに対する態度はあまり褒められたものではありません。乱暴だったり、素っ気なかったり、そうかと思えば優しかったりと、若干モラハラ的でさえあります。そこには人間(作った側)とレプリカント(作られた側)というパワーバランスの違いが存在するように思います。例えばデッカードがレイチェルを壁際に追い込んで「キスしてと言え」と迫る場面がありますが、間違いなくDVです。デッカードにも無意識的な差別や偏見(レプリカントだから何をしてもいい、的な)があったのではないでしょうか。

デッカードを渋々受け入れるレイチェル(映画「ブレードランナー」)

デッカードを渋々受け入れるレイチェル(映画「ブレードランナー」)

 終盤、逃げる決意をしたデッカードは、レイチェルに意志を確認します。

 「オレを愛しているか?」

 「オレを信じるか?」

 答えはどちらもイエスです。これは何も考えずに見れば感動的な愛のシーンかもしれません。けれど状況的に、レイチェルにノーという選択肢はあったでしょうか。ノーと言えば処分されるだけなのです。そう考えると、二人の間にあったのが「愛」だったのか、それとも「支配と被支配」だったのか、よく分からなくなります。

※デッカード自身もレプリカントだった、という説もありますが、公式見解ではないのでここでは取り上げません。

代替可能なオンリーワン

 その「ブレードランナー」の35年後の続編が「ブレードランナー2049」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督/2017年)です(ちなみにこのところ、「数十年後に作られる続編」がハリウッドで流行っています)。本作ではデッカードとレイチェルの逃避行のその後が明かされますが、物語の中心は、ブレードランナーとして警察に勤務するレプリカントのKの、出自を巡るミステリーです。

 Kはレプリカントのはずですが、幼少期の鮮明な記憶を持っており、「もしかしたら自分は人間なのかもしれない」と密かな希望を持っています。彼は非常に従順に任務をこなし、自分と同じレプリカントを容赦なく「廃棄処分」します。その従順さと冷徹さは「機械的」です。しかし時に激昂したり、メイドA.I.のジョイに優しく接したり、自分の出自に悩んだりするあたりは「人間的」です。ここに、前作から共通して流れるテーマ「人間とは何か」が見られます。

 また前作は「人間とレプリカントの愛(あるいは支配関係)」が主要なテーマでしたが、本作は「レプリカントとA.I.の愛(あるいは愛に見える関係)」をテーマとしています。つまり作られた機械どうしが、互いに親密な(唯一無二の)関係を築くことはできるのか? といった問いです。

 メイドA.I.のジョイは、ホログラム投影される、実体のない話し相手のような存在です。そのデータはサーバーに保存されていて、いつでもバックアップ可能。喋っている最中にメールが届けば一時停止してKに伝えます。いつもKの精神状態を観察していて、慰めや励ましの言葉を掛けます。Kの「完全な味方」です。

Kに絶えず寄り添う「オンリーワン」のジョイ(映画「ブレードランナー2049」)

Kに絶えず寄り添う「オンリーワン」のジョイ(映画「ブレードランナー2049」)

 物語の中盤、ある事情から、ジョイはサーバーからモバイル端末に移されます。これでどこへでも行けるようになりましたが、(追跡を避けるために)バックアップを消去したため、その端末中のジョイが唯一のデータとなります。文字通り(Kにとって)オンリーワンな存在になったわけです。

 ところが悲しいことに、その端末は敵によって破壊されてしまいます。ジョイはKに「愛してる」と最期に告げてあえなく消滅。データが破壊されたため、もうジョイは戻ってきません。この二人の間には本当の「愛」が芽生えていたのでは? と思わせる瞬間です。

 しかし終盤、満身創痍のKに目を留めた商品看板中のジョイが、「寂しそうね」と声を掛けてきます。まるで以前と同じように。実はジョイは、(考えてみれば当然のことですが)大量に流通しているメイドA.I.プログラムに過ぎませんでした。どんなカスタマーに対しても親密に接し、相手が満足するような受け答えをするのです。Kとの時間も、そうやって作られたものだったと分かります(K自身はそれを認識していたはずですが……)。

実は「代替可能」だったジョイ(映画「ブレードランナー2049」)

実は「代替可能」だったジョイ(映画「ブレードランナー2049」)

 つまり、「代替可能なオンリーワン」だったわけです。そしてジョイのような存在をKが求めたこと自体がレプリカントに組み込まれたプログラムの一つであったなら、二人の関係そのものが「作られたもの」だったのでしょう。「作られたもの」どうしが「作られた関係」を築いていくという、夢も希望もない話になってしまいますが。

 ちなみにiPhoneのSiriやアマゾンのアレクサといった音声A.I.がもっと進化して、持ち主にパーソナライズされて行けば、このジョイに限りなく近づくかもしれません。

神様もどき

 ではやはりA.I.は機械でしかないのか。レプリカントは人間の感情を模倣しているに過ぎないのか。それは本当は愛でも憎しみでもなく、ただプログラムに沿った反応でしかないのか、という話になります。

 しかしこの問いは、そのままわたしたち人間にはね返ってきます。というのは人間の感情や行動はホルモンバランスの微妙な変化や、周囲の人間や環境の変化に強く影響されますが、それは見方によっては高度なプログラムのようだからです(高度すぎてもはやプログラムと分からないプログラム、のような)。機械的なプログラムに沿うレプリカントと、生体的なプログラムに沿う人間です。両者にどのような違いがあるでしょうか。

 もしレプリカントやメイドA.I.が代替可能なら、人間も究極的には代替可能かもしれません(カズオ・イシグロの最新作「クララとお日さま」はこの問いに興味深い答えを出しています)。

 Kは警察内で「Skin-job(人間もどき)」と露骨に差別されます。お前は人間そっくりの作り物だ、代わりはいくらでもいるんだぞ、と。しかしそれを言うなら、「神に似せてつくられた」と聖書に書かれている人間は「神様もどき」ということになるでしょう。神様にとっては、わたしたちは幾らでも代替可能な存在かもしれません。

小ネタ:2つのエンディング

 「ブレードランナー」にはいくつかバージョンがありますが、劇場公開版とファイナルカット版は結末が異なっていて印象的です。前者は逃亡した二人が日差し溢れる道をのどかにドライブするカットで終わる、明らかなハッピーエンドです。

明るい劇場公開版のエンディング(映画「ブレードランナー」)

明るい劇場公開版のエンディング(映画「ブレードランナー」)

 しかし後者はデッカードのアパートのエレベーターが閉まって終わりです。真っ暗な画面が、二人の逃避行は決して楽しいものではない、と暗示しているようです。好みが分かれそうですが、わたしはこちらの方が好きです。他にも細かいところが変わっていますから、興味のある方はぜひ見比べてみて下さい。

陰鬱なファイナルカット版のエンディング(映画「ブレードランナー」)

陰鬱なファイナルカット版のエンディング(映画「ブレードランナー」)

 今回は以上になります。最後までお読み下さり、ありがとうございました。また来週お会いしましょう。どうぞ良い一週間をお過ごし下さい。(ふみなる)

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