誰かを犠牲にしないと成立しない世界なんて脆弱すぎる/映画「天気の子」
こんにちは、ふみなるです。theLetterの9つ目の記事です。いつもお読み下さりありがとうございます。今回はアニメ映画「天気の子」について書きました。どうぞ最後までお付き合い下さい。
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1.十字架を拒んだ救い主
「天気の子」(新海誠監督/2019年)の公開当時、「子どもの身勝手で世界に迷惑かけるな」という趣旨のネガティブな評価をよく見掛けました。わたしが割と信頼している人も同じようなツイートをしていたので、そうか、主人公が身勝手すぎるのは嫌だなと思い、この映画は見ないことにしました(そう考えるとツイッターの影響力はなかなかバカにできません)。
しかし数年たった最近、たまたま「天気の子」を見る機会がありました。とても感動しました(語彙力)。「子どもの身勝手」だなんて評価は完全に間違ってるじゃないですか、本当にこれを見た上でああいう感想になったのですか? と不思議に思ったものです。
いきなりネタバレですが、陽菜(ひな)は天気を操る力を授けられます。そして雨続きの異常気象が続く東京に快晴をもたらす救世主、「晴れ女」となります。しかし持続的な天気の安定には、陽菜が人身御供として「空」に捧げられる必要がありました(「救い主」であるイエス・キリストが十字架に掛けられるのに似ています)。
終盤、主人公の帆高(ほだか)は大きな選択を迫られます。何もしないで天気を安定させる(世界を水没から救う)か、一か八か陽菜を助け出す(世界の水没を進める)かです。しかし帆高はほとんど悩むことなく、陽菜を選ぶのでした。
全世界より、たった一人を選んだのです。キリスト教で言えば、イエスが十字架刑を拒んだような形です。
この選択が前述の「子どもの身勝手で世界に迷惑をかけるな」に繋がるのですが、いやいや、世界を救うために一人の子どもが(子どもでなくてもですが)犠牲になるのは当然なのですか? と疑問に思わざるを得ません。大勢(世界)の利益のために一人(陽菜)が犠牲になるのは、極めて功利主義的です(その意味で、イエスを全人類の救いのためのスケープゴートと考える刑罰代償説は、キリスト教内の功利主義と言えるかもしれません)。
しかも陽菜は親を亡くしており、15歳にもかかわらず弟を養って生活しなければならない身です(児童相談所に相談すべきケースですが、弟と離れ離れになるのを恐れてできなかったようです)。それだけでなく18歳と偽ってマクドナルドで働いていましたが、解雇されて風俗業界で働きはじめるところでした。
排除され、搾取される子どもたち(映画「天気の子」)
そのように社会の片隅に捨て置かれ、誰からも省みられなかった陽菜が「みんな」のために人身御供にされるのは、マジョリティから抑圧され排除されるマイノリティの姿に重なります。マジョリティの「いつも通りの快適な暮らし」は多くの場合、マイノリティが構造的に負わされた不便さ、生きづらさ、理不尽さの上に成り立っているからです。
あるいは気候変動などの環境問題で言えば、先進諸国が引き起こした甚大な環境破壊の煽りを、発展途上国が真っ先に受けるのに似ています。
2.世界の身勝手にNOを突きつけた被抑圧者
陽菜が「晴れ女」として気候変動を食い止めようとするのは、弱者が世界の歪みを一身に引き受け、強者がその代償の上にあぐらをかいて「何事もなかった」ように平然と過ごす構図と重なります。帆高はそんな理不尽な世界(劇中では何度か「狂った世界」と表現されます)に見切りを付け、陽菜を選んだのではないでしょうか。その意味でこれは差別構造に抗う物語です。「子どもの身勝手で世界に迷惑かける」物語でなく、「世界の身勝手にNOを突きつけた被抑圧者」の物語です。
また、そんな帆高と陽菜を助けるのも彼らと同じように社会の片隅に追いやられた人たち、力のない子どもたちでした。そして彼ら自身、助けたことで代償を払うことになります(例えば帆高を逃がす手助けをした須賀圭介や夏美は警察に逮捕されてしまいました)。抑圧された人を守るために戦うのは良いことのはずなのに、そうする人も同じく犠牲を払わされるわけです。これはイジメられている子を庇うことで自分もイジメの対象にされてしまう現象に似ています。
帆高を助ける人たちもまた犠牲を払わなければならない(映画「天気の子」)
映画のラスト、水没した東京で帆高と陽菜は再会します。これをハッピーエンドと取るかどうか意見が分かれるところでしょう。しかしそもそも話、弱者が犠牲になることを拒んだことで世界がダメになってしまうとしたら、その世界は脆弱すぎるのではないでしょうか。
3.無力な親と、行動する子
本作でもう一つ気になったのは「親の不在」です。陽菜の母親は病死していますし、父親については一言も触れられず、初めから存在していないかのようです。帆高の両親は健在のようですが、「家にいると息苦しい」という述懐から、関係が上手くいっていないのは明白です(高校生が家出して一人で東京に来るくらいですから、単に「上手くいっていない」どころではないかもしれません)。
彼らは親の保護を離れ、15歳にもかかわらず自立しなければなりませんでした。それだけでなく世界の運命を左右する選択を迫られ、行動しなければなりませんでした。「無力な親と、行動する子」の構図がここにあります。
この構図は、子どもが主役の物語では割とありがちです。例えば「グーニーズ」(リチャード・ドナー監督/1985年)は子どもたちが海賊の財宝を探し出す痛快冒険活劇ですが、そもそも主人公のマイキーらがそんな危険な目に遭わされたのは、彼の父親が無茶な借金を重ねたからです(しかもその父親は、地上げ屋の暴挙に対して何一つ行動しません)。
大人たちの代わりに行動する子どもたち(映画「グーニーズ」)
スティーブン・キング原作の「シャイニング」(スタンリー・キューブリック監督/1980年)もそうです。これはホテルの呪いに冒された父親が妻と子を殺そうとするホラーで、父親ジャックは「無力」を越えて「加害」に走ります。そんな彼に立ち向かうのは「かがやき」という超能力を持った息子ダニーでした。やはり「無力な親と、行動する子」です。
ホテルの悪霊の存在にいち早く気づくダニー(映画「シャイニング」)
この構図でわたしが連想するのは「父なる神」と「御子イエス」の関係です。宣教活動の結果処刑されるイエスを、神は見殺しにしました。キリスト教的には「神はイエスを見殺しにする必要があった」とか「神も共に苦しんでいた」とかいう贖罪論解釈(前述の刑罰代償説)がありますが、わたしはどうも納得できません。見殺しにするなんてあんまりではないでしょうか。
ちなみに「神も共に苦しんでいた」は遠藤周作の「沈黙」の終盤に種明かし的に登場するフレーズですが、「自分が苦しい時に神も共に苦しんでいた」と聞いて慰められる人と、全然慰められない人とに分かれることでしょう(自分は後者です)。
このように「無力な親と、行動する子」の構図は多くの物語で使われ、既にステレオタイプ化していますが、本来は親が子を守り、行動するべきだとわたしは思います。天の神(親)はイエス(子)に全てを託すのでなく、自分で行動すべきだったのではないかな? とわたしはキリスト教徒でありながら考えてしまいます。
先日NHKの「クローズアップ現代」で「親を捨ててもいいですか?/虐待・束縛をこえて」という特集が放送され、Twitterでも話題になりました。それだけ親(いわゆる「毒親」)に苦しめられる子が少なくないわけです。「無力な親と、行動する子」の構図はフィクションを越えて、現実世界に広がってしまっていると言えるかもしれません。
今回は以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。今週も皆さんにとって良い一週間となりますように。また来週お会いしましょう。(ふみなる)
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