夢にまでついて来る

ふみなるのニュースレター第26号。見たくない夢。人間の行動を左右する夢。たかが夢、されど夢。取り上げる作品は「インセプション」「エルム街の悪夢」「エイリアン2」。約2100字。
ふみなる 2021.09.05
誰でも

罪悪感の迷宮

 「インセプション」(2010年/クリストファー・ノーラン監督)は夢を自在に構築し、複数人で共有できるようになった近未来を描くSF映画です。主人公のドムは対象者の夢(=潜在意識)に侵入してアイディアを抜き取る産業スパイですが、本作では逆にアイディアを植え付ける作戦(インセプション)に従事します。夢の中で夢を見させる(夢の階層化)、現実ではあり得ない空間を作る(夢のパラドックス化)、夢を夢だと認識させる(明晰夢化)など様々なテクニックを駆使するドムたちですが、思わぬ妨害にあって作戦は難航します。

 一番の妨害は、ドム自身の潜在意識でした。彼は妻のモルを死なせてしまったという罪悪感をずっと抱えており、それがモルの姿をとって夢に登場し、肝心なところで邪魔してくるのです(絵的にはモルがドムを邪魔するように見えますが、ドムがドム自身を邪魔しているのです)。「自分の潜在意識はコントロールできない」というドムの言葉通り、夢の中のモルは(ドム自身の)恐怖と憤怒の象徴であり、何をしてくるか分かりません。

トーテムで夢と現実を区別するドム(映画「インセプション」より)

トーテムで夢と現実を区別するドム(映画「インセプション」より)

 本作は予算をかけた大作で、派手なアクションや爆発が満載ですが、「自分自身の罪悪感にどう向き合うか」といった普遍的な人間心理がテーマとなっています。夢の中に繰り返しモルが現れるのはドムにとって苦痛のはずですが、彼は拒むことができません。なぜならまだモルを愛しており、彼女と一緒にいたいと願っているからです。しかしそれが同時に彼を罪悪感で蝕みます(そのためか、レオナルド・ディカプリオ演じるドムは本作ではほとんど笑顔を見せません)。夢に現れるモルに悔い改めても、それは結局自分自身でしかなく、罪悪感は募る一方です。

 その意味でドムは映画の冒頭から八方塞がりに陥っています。本作に度々登場する迷宮構造は、ドムのそんな心理状態を象徴しているのかもしれません。彼は出口を見つけることができるのでしょうか。

夢にまでついて来る

 2012年に教会が解散して以降、わたしは度々教会に関連する夢を見てきました(今もたまに見ます)。多くは教会にいた頃と同じように牧師にこき使われたり、理不尽なことを言われたりする嫌な夢です(あれ、もう終わったはずなのにな……と夢の中で絶望している自分がいます)。過去の出来事に夢にまでついて来てほしくありませんが、こればかりはどうにもなりません。そんな夢を毎晩のように見る時期があり、眠るのが憂鬱だったのを覚えています。「エルム街の悪夢」(1984年/ウェス・クレイブン監督)の眠るのを恐れる主人公たちのような心境、と言ったら言い過ぎでしょうか(眠ると夢の中で殺人鬼フレディに襲われ、夢の中で殺されると実際に死んでしまう、という設定)。 

眠るたびに夢の中にフレディが現れる(映画「エルム街の悪夢」より)

眠るたびに夢の中にフレディが現れる(映画「エルム街の悪夢」より)

 わたしが教会の夢を繰り返し見るのは、ドムのような罪悪感からでなく、牧師から受けたトラウマが原因かもしれません。わたし自身はそこまで「傷つけられた」と思っていませんが(思いたくないだけかもしれませんが)、その正体が何であれ、それが自分の心の中の小さくない部分を占めているのは間違いありません。だから9年経った今もこうして、教会のことを(伝道とは正反対の意味で)発信し続けているのかもしれません。

 棄教してすっぱり忘れてしまった方がいい場合と、そうできない場合とがあるようです。

 トラウマが悪夢となって繰り返し現れる、という現象は「エイリアン2」(1986年/ジェームズ・キャメロン監督)の主人公リプリーにも見られます。彼女は前作の唯一の生き残りですが、エイリアンに襲われた恐怖が深いトラウマとなっており、毎晩エイリアンに襲われる悪夢に苦しんでいます。本物のエイリアンからは逃れられても、夢の中のエイリアンからは逃れられません。

 その「エイリアン2」では、連絡が途絶えた植民惑星LV-426(前作でリプリーたちがエイリアンの卵を発見した惑星)に宇宙海兵隊が派遣されますが、彼女もアドバイザーとして同行するよう求められます。最初は「あそこに戻るなんて冗談じゃない」と突っぱねるリプリーでしたが、連夜の悪夢は治らず、ついに「あそこに戻って奴らと決着を付けるしかない」と決断するに至ります。結局悪夢からは逃れられなかったのです。

たかが夢、されど夢

 最近ある人から「教会で受けた傷は教会で癒やされる必要がある(教会が癒す責任がある)」という旨の話を聞きました。なかなか同意しかねる言葉ですが、事実かもしれません。というのはわたしがキリスト教関連の発信を続けているのは、やはりそれが自分自身の癒しや回復に繋がっているようにも感じるからです。残念ながら、教会が積極的に関与してくれた癒しではありませんけれど(関与してくれるな、とも思いますが)。

エイリアンと戦うことを選んだリプリー(映画「エイリアン2」より)

エイリアンと戦うことを選んだリプリー(映画「エイリアン2」より)

 リプリーがエイリアンに対峙することで悪夢から逃れようとしたように、そしてドムが夢の中のモルと対峙することで悪夢から逃れようとしたように、わたしもキリスト教の(あるいはカルト組織の)構造的な問題に対峙することで、個人的な悪夢から逃れようとしているのかもしれません。

 その意味で夢はわたしたちのこれまでの人生を映し出し、時に否応なく方向性を決めてしまうものです。聖書の人物もしばしば夢に導かれ、教えられたとあります。創世記に登場するヤコブの息子ヨセフは夢の解き明かしをする能力によって苦境に陥りますが、同じ能力によってエジプトの大臣にまで上り詰めました。たかが夢、されど夢、と言ったところでしょうか。(ふみなる)

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